最大多数の最大幸福とは何か?②ベンサムの功利主義における身体的快楽の総和としての最大幸福
前回書いたように、
「最大多数の最大幸福」という言葉は、もともとは、アイルランド出身のスコットランド啓蒙主義の哲学者フランシス・ハチスンの道徳哲学に由来する概念であると考えられることになります。
しかし、
ハチスンにおいて、この「最大多数の最大幸福」という言葉が人間の道徳感情(モラル・センス)に基づく他者への善意の最大化という意味で用いられていたのに対して、
功利主義の提唱者であるベンサムは、この言葉を彼が用いたのとは異なる意味で新たに捉え直していくことになるのです。
ベンサムの功利主義における身体的・心理的快楽と快楽計算
功利主義とは、道徳的な善悪の判断が、行為の結果としてもたらされる功利(utility、効用、有用性)によって決定されると考える倫理思想のことを指す概念ですが、
そうした功利主義における功利とは、一義的には、苦痛を避けて人間の身体に対して快感をもたらすものを求めるという身体的快楽に根差す概念であると考えられることになります。
そして、
人間の身体の構造は、どんな人でもその基本的な仕組みは大きくは変わらないので、そうした身体にもたらされる苦痛や快感としての身体的快楽であるならば、
それを量として測り、互いの快楽の大きさを比較することも可能であるという考え方が導き出されることになります。
そして、こうした考え方に基づき、
功利主義においては、それぞれの行為の結果生じることになる快楽の強さ・持続性・範囲といった各要素を分析し、それを量として数値化したうえで互いに比較するという快楽計算に得られた計算結果にしたがって、
快楽の総量が大きい方がより幸福の最大化がなされる善い選択であると結論づけられることになるのです。
もちろん、
幸福の源となる快楽のあり方には、「お腹がいっぱいになって満足」といった身体的快楽だけではなく、「信頼できる友達ができてうれしい」といった心理的快楽も存在すると考えられることになるのですが、
少なくとも、ベンサムの功利主義においては、そうした心理的快楽も究極的には身体的快楽をベースに置く派生的な快楽として捉えられることになり、
心理的快楽も身体的快楽と同列に量的に計算可能な快楽であると捉えられることになるのです。
個人的な身体的快楽の総和としての最大幸福
以上のように、
功利主義において幸福とは、一義的には、個人の私的な身体的・心理的快楽の集合として捉えられることになり、
そうした個人個人の快楽の総和が最大化されることによって、社会全体の最大幸福がもたらされると考えられることになります。
つまり、
ベンサムの功利主義においては、
基本的に、社会を構成する一人一人の個人は、自らの身体的快楽の最大化を目指す利己的な存在として捉えられていて、
そうした一人一人の個人的な身体的快楽の総和が社会全体の幸福の正体であるとみなされているということです。
もちろん、
功利主義においても、その究極的な目標は社会という集団全体の幸福を実現することにあるので、功利主義の思想自体が利己的な思想というわけではないのですが、
ハチスンの道徳哲学においては、人間の道徳感情に根差した他者への善意という精神的で利他的なあり方に幸福を生み出す源があるとされていたのに対して、
ベンサムの功利主義においては、量的に計算可能な個人個人の私的な身体的快楽という身体的で個人的なあり方に幸福の源泉があるとみなされているという点において、
両者の道徳思想のあり方は、根本から大きく異なっていると考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
ハチスンにおける最大幸福の実現は、他者への善意の集合によってもたされるとされていたのに対して、
ベンサムにおける最大幸福の実現は、個人的な身体的・心理的快楽の総和によってもたされると考えられているように、
両者は、「最大多数の最大幸福」という同じ概念について語っているものの、この概念に基づいて語られている両者の思想内容は互いに大きく異なっていると考えられることになります。
そして、そうすると次に、
こうしたベンサムの功利主義における「最大多数の最大幸福」の考え方に従うと、それが個人的な身体的・心理的快楽の総和によってもたされるものである以上、
例えば、
少数の人々の苦痛を代償とすることによって大勢の人々の快楽が得られる場合、そのようにして得られる最大幸福の実現は、果たして功利主義において倫理的に肯定されうるのか?という疑問が生じてくると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:少数者の犠牲に基づく社会全体の幸福の最大化は功利主義において否定されうるのか?①加害者の快楽の総和と被害者の苦痛の総和の関係
前回記事:最大多数の最大幸福とは何か?①ハチスンにおける善意と道徳感情の原理
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