少数者の犠牲に基づく社会全体の幸福の最大化は功利主義において否定されうるのか?①加害者の快楽の総和と被害者の苦痛の総和の関係

前回書いたように、

ベンサムの功利主義においては、心理的快楽身体的快楽が同列に量的に計算可能な快楽であると捉えられ、

最大多数の最大幸福」の実現は、個人における身体的・心理的快楽の総和によってもたらされると考えられることになります。

そして、

このようなベンサムの考え方に従うと、道徳的な善悪の判断基準も、そうした個人的な身体的・心理的快楽の総和としての社会全体の最大幸福の実現に置かれることになり、

その行為の結果もたらされることになる快楽の総和が大きければ善、快楽の総和が小さく、むしろ苦痛や害の方が大きければ悪とみなされることになります。

スポンサーリンク

功利主義において殺人などの加害行為が悪とされる原理

こうした功利主義における善悪の判断基準は、シンプルで分かりやすく、極めて合理的な判断基準になっているとも考えられるのですが、

その一方で、

こうしたベンサムの功利主義における「最大多数の最大幸福」の考え方に従うと、

差別やいじめ迫害行為などによって少数の人々の苦痛を代償とすることによって大勢の人々の快楽が得られる場合、

功利主義においては、そうした差別やいじめ迫害行為などが正当化されるという結論が導かれてしまうのではないか?という倫理的な問題が生じてくると考えられることになります。

例えば、

学校の中で、ある一人の子供が、自分の意見に逆らったとか、先生に告げ口したとか、あるいは、単に目つきが気に入らなかったとか、正当性のないどうでもいい理由で、他の一人の子供を殴ったとすると、

この場合は、加害者の子供が相手を殴ったことにより得られる胸がスッとするといったちょっとした快感よりも、被害者の子供が感じる殴られたことによる痛みの方が大きいと考えられることになります。

さらに言うと、最大の加害行為である殺人においては、犯罪者にとって人を殺すという快感がどれほど大きいものであったとしても、被害者の命が失われるという損失と、残された被害者家族や関係者が感じる絶望的な喪失感の方がそれよりも圧倒的に大きいと考えられるので、

殺人は、功利主義においても、社会における最大幸福を減少させる最も悪しき行為であると考えられることになりますが、

それと同様に、

加害者一人が被害者一人を殴るといった一対一の加害行為は、功利主義においても悪しき行為として明確に否定されるということになるのです。

スポンサーリンク

加害者の快楽の総和が被害者の苦痛の総和を上回る場合の問題点

しかし、

これが、より陰湿で規模の大きいいじめの場合となると、その様相は少しずつ異なってくることになります。

例えば、

学校の中で、ある一人の子供が、別の一人の子供を仲間はずれにしたり無視したりするなどの心理・精神的な嫌がらせをする場合、

この場合も、一対一の関係では、加害者の子供が感じる相手を無視するという加害行為によって得られる優越感などの快感よりも、被害者の子供が感じる不安感などの苦痛の方が大きいと考えられるので、そうした行為は功利主義の観点からも悪しき行為として否定されることになります。

しかし、

嫌がらせがエスカレートしていく中で、いじめに加わる人数が増えていくようになると、徐々にその状況に変化が見られていくことになります。

無視や仲間はずれといった心理的ないじめ行為によって被害者である一人の子供が感じる不安感や絶望感にはある程度限界があるのに対して、相手をいじめることによって得られる加害者たちの快感の総和は、いじめに加わる人数が増大するのに比例してどんどん増えていくことになります。

そうすると、

一人一人の加害者が感じる快感はいじめられている被害者が感じる苦痛よりも小さいものであったとしても、塵も積もれば山となるで、

いじめに加わる人数が十人、二十人、四十人と徐々に増えていくと、どこかの時点で、いじめられている被害者一人の苦痛をその人をいじめている大勢の人々が感じる快感の総和が上回る瞬間が訪れると考えられることになるのです。

つまり、

こうした大勢の人々少数の人々をいじめるといった多対小の関係においては、加害者が感じる快感の総和が被害者が感じる苦痛の総和を上回ることもありうるということになり、

それは、行為の結果もたらされることになる快楽の総和が大きければ善であるとされる功利主義における善悪の基準においては、善なる行為として正当化されてしまうとも考えられることになるのです。

そして、それは、

国家や世界規模の事例に当てはめて考えてみると、

世界のどこか一部の地域で戦争を起こして、その地域の少数の人々を命の危険にすらさらされる圧倒的に不幸な状態へと陥れることになったとしても、

そのことによって他の国々の経済が豊かになり、残りの大多数の人々の大きな幸福が得られるとするならば、それは最大幸福の実現に適った善い選択であると考えるといった、

より大きな善のためには小さな悪は見過ごされるべきである、あるいは、国家全体の大きな利益のためには国民の内の小さな犠牲はいとわないといった全体主義の思想にもつながる考え方であると考えられることになります。

・・・

以上のように、

大勢の人々少数の人々を差別や迫害する行為におようぼうとする時、

そうした差別や迫害行為によって得られる大勢の加害者たちの快楽が、差別や迫害行為を受ける側である少数の被害者たちの苦痛を上回るほど十分に大きい快楽であるとするならば、

そうした行為の結果の快楽の総和が相対的に大きくなる差別や迫害行為については、功利主義においては、快楽の総和が大きくなる善なる行為であるとして肯定されるか、

あるいは、少なくとも、被害者の苦痛の総和加害者の快楽の総和を上回ることがないという意味において悪ではない行為として黙認されることになってしまうとも考えられることになるのです。

こうした人間の道徳的な感情から言っても明らかに倫理的に受け入れ難い考え方を避けるためには、功利主義の考え方の範囲内どのような解決策があるのか?ということについては、また次回詳しく考えていきたいと思います。

・・・

次回記事:功利主義の本質にある個人主義と快楽の最大化という二つの原理、少数者の犠牲に基づく社会全体の幸福の最大化は功利主義において否定されうるのか?②

前回記事:最大多数の最大幸福とは何か?②ベンサムの功利主義における身体的快楽の総和としての最大幸福

功利主義のカテゴリーへ

スポンサーリンク
サブコンテンツ

このページの先頭へ