蕾から花、花から実へと展開する二段階の弁証法的発展の構造、『精神現象学』における蕾と花と実の弁証法の二通りの解釈②

前回書いたように、ヘーゲルの『精神現象学』の冒頭部分に示されている蕾と花と実の三者の間に成立する植物における生命の弁証法的発展のあり方は、

通常の解釈では、「蕾」と「花」と「実」という三つの生物学的な概念のそれぞれに、テーゼ(定立)とアンチテーゼ(反立)とジンテーゼ(統合)がそのまま対応づけられるとする一段階のみで完結した弁証法の構造として解釈されると考えられることになります。

しかし、それに対して、こうしたヘーゲルの弁証法哲学におけるテーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼという三つの概念の機能のあり方についてより厳密に考えていくと、

そこには、蕾から花へ花から実へ二段階にわたって展開していく弁証法的発展の構造を見いだすことができるとも考えられることになります。

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テーゼはアンチテーゼに論理的に先行し、時間的には同時に存在する

例えば、

以前の記事で取り上げた家族」と「市民社会」と「国家の間に成立する社会学的な概念の弁証法的な展開のあり方の例を見ても分かる通り、

そこでは、テーゼとなる「家族」の概念が前提とされたうえで、次に、それと対立するアンチテーゼとなる「市民社会」の概念が取り上げられることになり、

さらに、そこから両者の概念をアウフヘーベンすることによって新たな段階におけるジンテーゼ(統合、統一)となる「国家」の概念へと至る社会の弁証法的な発展の構造が示さていると考えられることになりますが、

この場合、テーゼとなる「家族」と、アンチテーゼとなる「市民社会」の存在は、当たり前のことではありますが、現実の世界においては時間的に同時に存在していると考えられることになります。

つまり、

通常の場合、ヘーゲルの弁証法哲学においては、

テーゼ(定立、正命題となる概念と、それに対するアンチテーゼ(反立、反立命題となる概念は、

論理的にはテーゼの存在ががアンチテーゼの存在に先行するものの、時間系列においては、両者の概念は同時に存在するものとして捉えられることになり、

議論の上ではテーゼとなる思想や概念に対して、アンチテーゼとなる思想や概念が新たに唱えられ、現実においては両者の概念が同時に存在する状態からアウフヘーベンを通じて新たなジンテーゼとなる概念が見いだされるという形で社会や生命における弁証法的な発展が進展していくことになると考えられることになるのです。

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蕾から花、花から実へと展開する二段階にわたる弁証法的発展の構造

そうすると、冒頭で述べた「蕾」と「花」と「実」三つの生物学的な概念の間の弁証法の展開の場合、

通常の解釈におけるように、「蕾」をテーゼ「花」をアンチテーゼとして捉えてしまうと、

現実の世界においては、蕾が存在している内はまだ花は咲いておらず、花が咲いた時には、すでにその段階で蕾の存在は消滅していると考えられることになるので、

この場合、テーゼとなる存在とアンチテーゼとなる存在が現実において同時に存在する状態から、対立する両者の存在のアウフヘーベンによって新たな段階における統一としてのジンテーゼがもたらされるという

通常の形式におけるヘーゲルの弁証法の構造が厳密な意味においては成立していないとも解釈することができると考えられることになります。

それでは、同時に存在する二つの対立する存在をアウフヘーベンすることによって新たな段階における統一を見いだすという弁証法的な発展の構造をより厳密な意味で満たす解釈としては、具体的にどのような解釈が考えられるのか?ということですが、

ここでは、

「蕾」と「花」の対立から、両者の概念のアウフヘーベンを通じて「実」が生み出されるというよりも、

むしろ、

「蕾」が自ら滅びて「花」へと変化し、今度はそうして生まれた「花」が自ら滅びることによって「実」が生み出されるという

蕾から花、そして、花から実という植物の生長と変化の二つの段階のそれぞれにおいて、アウフヘーベンの働きを見いだすことができるとも考えられることになります。

つまり、

まず、第一段階においては、

蕾の生長がテーゼとされることによって、そうした蕾の生命が徐々に衰え、死へと向かっていく蕾の崩壊がアンチテーゼとされ、

蕾は自分自身の姿形を失う同時に、自らの生命の本質を次の段階へとつないでいくことによって、新たな統一(ジンテーゼ)である花の存在へと展開し、

次に、第二段階において、

今度は、新たに生まれた花の生長がテーゼとされることによって、その存在の衰えと死としての花の崩壊がアンチテーゼとされ、

花は自分自身の姿形を失う同時に、自らの生命の本質を次の段階へとつないでいくことによって、さらに新たな段階における統一(ジンテーゼ)としての実の存在へと至ることになるという

二段階にわたる弁証法的発展の構造として、「蕾」と「花」と「実」の三者の間に成立する弁証法を捉えることができると考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

ヘーゲルの『精神現象学』の冒頭部分に示されている蕾と花と実の三者の間に成立する植物における生命の弁証法的発展のあり方は、

前回取り上げた第一の解釈においては、

「蕾」をテーゼ「花」をアンチテーゼとしたうえで、両者の概念のアウフヘーベンからジンテーゼとしての「実」が生じるという一段階のみで完結した弁証法の構造として解釈されることになりますが、

それに対して、第二の解釈においては、

まずは、蕾の生成、すなわち、「蕾の生」がテーゼそれに対する蕾の崩壊、すなわち、「蕾の死」がアンチテーゼとされたうえで、

そうした蕾の生と死がアウフヘーベンされることによって、両者の統一(ジンテーゼ)としての花の存在が生み出され、

さらに、そこから今度は、

新たに生み出された花としての生命、すなわち、「花の生」がテーゼ、それに対する花の衰えと崩壊、すなわち、「花の死」がアンチテーゼとされたうえで、

そうした花の生と死がアウフヘーベンされることによって、新たな生命の統一(ジンテーゼ)としての実(果実、種子)の存在が生み出されるという二段階にわたるアウフヘーベンを経ることによって、

蕾から花へ、そして、花から実へと至る植物における生命の弁証法的展開の構造が成立することになると解釈することができると考えられることになります。

そして、いずれにせよ、

『精神現象学』の冒頭においては、こうした蕾と花と実の三者の間に成立する植物の生と死における弁証法的発展のあり方が示されていくことを通じて、

ヘーゲル哲学における生命の弁証法的な発展の形式が明らかにされていくことになると考えられることになるのです。

・・・

このシリーズの次回記事:雄花と雌花あるいは雄しべと雌しべとの間に成立する生命の弁証法的展開、ヘーゲル哲学における生命の弁証法的展開の構造①

前回記事:精神現象学』における蕾と花と実の弁証法の二通りの解釈とは?①、通常の解釈における植物の生命の弁証法的発展の捉え方

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