「家族」と「市民社会」から「国家」へと向かう『法の哲学』におけるヘーゲルの弁証法のあり方とは?
前々回の記事書いたように、ヘーゲルの弁証法哲学において示されているアウフヘーベン(Aufheben)とは、
テーゼ(正)とアンチテーゼ(反)の対立からジンテーゼ(合)の統一へと向かう三つの概念の間に成立する思考の働きであり、
それは一言でいうと、
対立する二つの概念を共に否定すると同時に、両者の概念をより高次の段階へと引き上げることによって新たな統一を生み出すという破格の論理展開のあり方を意味すると考えられることになります。
そして、こうした弁証法と呼ばれる論理的な思考のあり方が、ヘーゲルの哲学の骨格を成す主要な思考法となっている以上、
そうした思考のあり方が具体的に示されている箇所は、彼自身の著作の内に数多く散見されることになるのですが、そのなかでも、より明確な形で弁証法的な展開が示されている箇所としては、例えば、
ヘーゲルの主著である『精神現象学』において示されている生命の弁証法的展開や、『法の哲学』において示されている「家族」と「市民社会」から「国家」へと向かう弁証法的な社会観および国家観のあり方が挙げられると考えられることになります。
人間社会の基盤となる自然的な結合としての「家族」の概念
ヘーゲル哲学における弁証法的な論理展開のあり方が示されている例として挙げた前述した二つの著作の内の後者にあたる『法の哲学』(Philosophie des Rechts、フィロゾフィー・デス・レヒツ)と呼ばれる著作の中では、
その第三部の「人倫」の章において、「家族」と「市民社会」そして「国家」という三つの概念の弁証法的な発展形態において社会全体を把握するという新たな社会観および国家観が提示されていくことになります。
こうした『法の哲学』における記述の中では、まず、男と女そして二人の間に生まれた子供の三者から成る「家族」が、人間が社会生活を営むための最も基本的な単位として定義づけられることになります。
つまり、
最も原初的な自然状態においては、一組の夫婦とその子供たちから構成されるような自然的な結合としての「家族」の概念が社会の基盤となることによって、人間の基本的な生活のすべてが成り立っていると考えられるということです。
独立した個人が生み出す欲望の体系から成る「市民社会」の概念
しかし、
極めて原始的で小規模な社会においては、そうした自然状態における家族的なつながりのみによって各人が社会生活を営むことが可能であるとは考えられるものの、
社会の規模が拡大していくのに伴って、家族間やその延長線上にある部族間の垣根を超えたより大規模な人的交流が必要となり、
近代社会においては、農民や職人や商人、さらには、兵士、学者、実業家といった様々な職業への分業が進められていくことによって、
家族という自然的な結びつきを離れ、独立した個人となった市民が自らの意志で自由な職業選択をしたうえでそれぞれの社会生活を営んでいく市民社会と呼ばれる社会のあり方が形成されていくことになります。
そして、
こうした市民社会と呼ばれる社会形態においては、「家族」における自然的な結合の束縛から逃れた自由な「市民」たちが、自らの欲求に従って、貨幣を通じて自由に所有物の交換を進めていくことによって、
各人が私利私欲に基づいて自由に自らの欲求を満たしていく欲望の体系と呼ばれる社会システムが形成されていくことになります。
そして、こうした「市民社会」が生み出す欲望の体系においては、社会を構成する各人は、「家族」による束縛からは自由にはなったものの、
それぞれが自らの欲求の充足のみを追求していくことによって、互いにどんどん孤立を深めていくと同時に、経済面と精神面の両面における貧富の格差も拡大していくことになり、
それによって、そうした自由な「市民社会」は、社会を構成する一人一人の人間を互いに孤立させ、心理的な対立と軋轢を生み出す分裂した社会へと陥ってしまうという矛盾を生じさせてしまうと考えられることになるのです。
「家族」と「市民社会」のアウフヘーベンとしての「国家」の概念
そして、
こうした「家族」と「市民社会」の間の対立を乗り越え、両者の概念の間に新たな統一と調停をもたらす概念として現れるのが「国家」であり、
社会を構成する自由な個人全体の意志の力によって形成される「国家」は、その内部において各人が自らの意志によって自由に活動することを認めると同時に、
「国家」という新たな枠組みに基づいて、各人がそこに帰属し、互いに結束する拠り所を得るという新たな形における社会の統一を生み出していくことになります。
つまり、
「国家」は、それが血縁関係に基づく束縛を超えて、自らの内で各人が独立して自由に活動することを認めるというという点では「家族」の否定であり、
それが自らの統一的な意志に従うことを「国家」を構成する各人に要請することによって新たな形における社会の結束を生み出すという点では「市民社会」の否定であると考えられることになり、
そういう意味において、
理念としての「国家」とは、「家族」と「市民社会」の両者を否定すると同時に、それをより高次の段階へと引き上げて統一するという両者の概念のアウフヘーベンによって成立する概念であると考えられることになるのです。
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以上のように、
ヘーゲルの代表的な著作の一つである『法の哲学』においては、
人間社会の基盤となる自然的な結合としての「家族」のあり方は、独立した自由な個人から成る「市民社会」において生じる欲望の体系によって社会の内に孤立と分裂が生み出されることによっていったん破壊されてしまうことになるのですが、
こうした「家族」と「市民社会」という二つの概念が、より高次の段階にあたる「国家」の概念の内に統合されることによって、そこに新たな結合が生み出されていくという形で、
「家族」と「市民社会」から「国家」へと向かう三者の概念の間の弁証法的な展開が示されていると考えられることになります。
そして、このように、
自然的な結合ではあるが束縛でもある「家族」と、自由ではあるが分裂した「市民社会」という二つの概念がアウフヘーベンされることによって生み出された「国家」という概念において、
結合と分裂、そして、束縛と自由という相反する二つの概念の超越的な統一がもたらされることになると考えられることになるのです。
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次回記事:ヘーゲルの国家論における三重の崩壊に基づく動的で有機的な国家の弁証法的展開の構造
前回記事:「アウフヘーベン」が日本語では「止揚」や「揚棄」として訳される理由とは?保存と廃棄という二要素への焦点の当て方の違い
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