トマス・アクィナスの『神学大全』の「五つの道」における神の存在証明のあり方の違いとそれぞれの論証の区分のまとめ
このシリーズの初回から前回までの一連の記事では、中世スコラ哲学の大成者とされるトマス・アクィナスの主著である『神学大全』において示されている「五つの道」と呼ばれる神の存在証明の議論について詳しく考察してきました。
そこで、今回の記事では、こうした「五つの道」のそれぞれにおける神の存在証明のあり方は、互いに具体的にどのような点で異なっていると考えられるのか?
そして、こうした一つ一つの道において示されている神の実在性についての論証のあり方は、それぞれどのようなタイプの論証の区分に分類されることになるのか?ということについて、改めてまとめて考えておきたいと思います。
「第一の道」から「第三の道」までの神の宇宙論的証明の議論
まず、トマス・アクィナスの『神学大全』において示されている「五つの道」のうちのはじめの道である「第一の道」においては、
物体の運動という極めて日常的な経験的事実から議論をスタートさせたうえで、そうした様々な物体の運動の原因をどんどん過去へとさかのぼっていくことによって、
最終的に、あらゆる物体の運動の究極の原因となる「第一動者」としての神の実在性が論証されるという形で神の存在証明の議論が進められていくことになります。
それに対して、「第二の道」においては、
新たに、アリストテレス哲学における始動因、すなわち、物事の生成変化の起源となる原因のことを意味する哲学的な原因概念のあり方が導入されたうえで、
そうした世界に存在するあらゆる物事の生成変化の原因となる始動因の系列を「第一の道」における論証の議論と同じような形で、どんどん過去へとたどっていくことによって、
あらゆる物事の生成変化の究極の原因となる始動因としての神の実在性の論証が進められていくことになります。
そして、その次の「第三の道」においては、
今度は、世界に存在するあらゆる事物が必然的な存在と偶然的な存在という二種類の様相的な区分へと分類されたのちに、
そうした必然的な存在と偶然的な存在の両者を含めた世界全体が成立するための究極の根拠となる必然的な存在としての神の実在性が論証されていくことになるのですが、
このように、
トマス・アクィナスの『神学大全』において示されている「五つの道」のうちの「第一の道」から「第三の道」までの神の存在証明の議論においては、
基本的には、この宇宙に存在するあらゆる物事の起源と根拠についての探究が進められていくことによって、それらの存在の究極の原因としての神の実在性の論証が行われていくという
一般的には、宇宙論的証明と呼ばれる神の存在証明のタイプに分類される論証の議論が展開されていると考えられることになるのです。
「第四の道」における完全性に基づく神の存在証明論と、「第五の道」における目的論的証明
そして、その次の「第四の道」においては、
世界に存在する様々な事物のなかには、より多く善なるものとより少なく善なるもの、あるいは、より多く真なるものとより少なく真なるものが見いだされるというように、
それぞれの事物における存在のあり方には量的な差異があるということが示されたうえで、
そうした様々な度合いにおいて存在するいっさいの善なるものや真なるものが成立するための究極の根拠として、そうした真や善といった性質を最大限に有する最も完全な存在としての神の実在性が論証されていくことになります。
そして、最後の「第五の道」においては、
今度は、世界の内に存在する様々な自然的事物の内に見いだされる合目的性へと議論の焦点が当てられてうえで、
動物の目や鳥の翼といった複雑で精緻な構造を持った自然の造形が、それが人間の手によって作り出された人工物ではないにもかかわらず、特定の用途や目的に適(かな)った秩序を有する存在としてつくり上げられていると考えられることから、
そうしたすべての自然的事物における合目的性と秩序の根拠として、それらの自然的事物の造り手あるいは設計者となる人間の知性をも大きく凌駕するような卓越した知性を持った何らかの存在が実在することが不可欠であると結論づけられることになります。
そして、こうした「第五の道」における自然における合目的性と秩序の起源をめぐる議論を通じて、
この世界のあらゆる自然的事物の造り手にして設計者となる知性的な存在としての神の実在性を論証する議論が展開されていくことによって、
『神学大全』の「五つの道」における神の存在証明の議論のすべてが完結することになるのです。
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以上のように、
トマス・アクィナスの『神学大全』において示されている「五つの道」における神の存在証明のあり方について大きくまとめると、
「第一の道」から「第三の道」においては、宇宙に存在するあらゆる物事の起源と根拠についての探究を進めていくことによって、それらの存在の究極の原因として神が存在することが論証されるという宇宙論的証明と呼ばれるタイプの神の存在証明の議論が示されているのに対して、
「第四の道」においては、世界に存在する様々な事物における存在のあり方の量的な差異から、あらゆる性質を最大限に有する最も完全な存在としての神の実在性の論証がなされていくという完全性という概念に基づく神の存在証明の議論が示されていて、
「第五の道」においては、精緻で複雑な構造をもった様々な自然の造形の内に見いだされる合目的性という観点から、この世界におけるあらゆる自然的事物の設計者となる知性的な存在として神が存在することが論証されるという目的論的証明と呼ばれるタイプの神の存在証明の議論が示されているという点に、
それぞれの道における神の存在証明の議論のあり方の具体的な違いがあると考えられることになるのです。
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次回記事:宇宙論的証明とは何か?①アリストテレスの「不動の動者」に基づく神の存在証明の議論
初回記事:物体の運動に基づく神の存在証明、トマス・アクィナスの「第一の道」における神の存在証明の議論
前回記事:自然における合目的性と秩序に基づく神の目的論的証明、トマス・アクィナスの「第五の道」における神の存在証明の議論
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