始動因に基づく神の存在証明、トマス・アクィナスの「第二の道」における神の存在証明の議論

前回書いたように、トマス・アクィナスの『神学大全における五つの道のうちのはじめの道にあたる「第一の道」においては、

運動する物体が存在するという経験的事実に基づく形で、他のものを動かすが自分自身は他の何ものによっても動かされることのない「第一動者」、すなわち、あらゆる存在を動かす究極の原因としての神の存在が導き出されることによって神の存在証明の議論が進められていくことになります。

そして、その次の道にあたる第二の道においては、こうした「第一の道」においてあらゆる運動の究極の原因として捉えられていた神の概念が、今度は、

始動因というより哲学的な概念として捉え直されていくことによって、少しずつ論証の角度を変えていく形で神の存在証明の議論が展開されていくことになります。

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物体の運動と生成変化の始原としてのアリストテレスにおける始動因

まず、こうしたトマス・アクィナスが示す第二の道における神の存在証明の議論において、論証の中心概念となっている始動因とは、具体的にどのような概念であると考えられることになるのか?ということについてですが、

それは、もともとは、古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスによって提唱された四原因説と呼ばれる哲学的な原因理論に由来する概念であると考えられることに

アリストテレスの四原因説においては、世界に存在するあらゆる自然的事物の生成変化の原理を説明するために、

素材因(質料因)・形相因始動因(作用因)・目的因と呼ばれる四つの原因となる原理のあり方が提示されていくことになりますが、

このうち、上記の四種類の原因概念のうちの三番目に挙げられている始動因あるいは作用因とは、一言でいうと、

物体の運動や物事の生成変化がそこから始まる始原アルケーとなる原因概念として定義することができると考えられることになります。

つまり、

アリストテレス哲学において示されている始動因の概念とは、

トマス・アクィナスが「第一の道」において示したようなあらゆる運動の究極の原因となる概念であると同時に、物事におけるその他の様々な生成変化のあり方をも含めた

あらゆる運動と生成変化の究極の原因のことを意味する概念として捉えられることができると考えられることになるのです。

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「第二の道」における始動因に基づく神の存在証明

そして、トマス・アクィナス第二の道における神の存在証明の議論においては、もともとはアリストテレス哲学に由来をもつ始動因という原因概念に基づいて、

まずは、世界にはこうした始動因に基づく生成変化の秩序が現に存在していると主張されることになります。

そして、例えば、

親鳥は自らの子孫となる卵を産むことによってそこから生まれるひな鳥の始動因となることはできますが、自分自身を産んで自らの始動因となることは不可能であるように、

一般的に、どのような存在も自分自身の始動因となることは不可能であると考えられるということと、

世界が始まってから現在までに経過した時間は有限である以上、そういした運動や生成変化の原因となる始動因の系列無限に過去へとたどっていくことも不可能であると考えられることから、

こうした一連の始動因の系列は、最終的に、世界におけるあらゆる運動と生成変化の究極の原因となる第一の始動因となる何らかの存在へと行き着くことになると考えられることになります。

つまり、以上のような論証の議論の流れによって、

この世界に存在するあらゆる物事の運動と生成変化の根本原因となる究極の始動因として神は存在するということが結論づけられると考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

トマス・アクィナスの『神学大全に出てくる「五つの道」のうちの第二の道における神の存在証明の議論では、

アリストテレス哲学における始動因の概念に基づいたうえで、

そうした始動因の系列を無限に過去へとたどっていくことが不可能であることから、あらゆる物事の運動と生成変化の根本原因となる究極の始動因としての神の存在が導き出されるという形で、神の存在証明の議論が組み立てられていると考えられることになります。

そして、こうした「第二の道」と呼ばれる神の存在証明の議論においては、

基本的には、原因の系列を無限にさかのぼっていくことが不可能であるということから究極の原因としての神の存在が論証されるという「第一の道」とほとんど同じ形式をもった議論の道筋において論証が進められていると考えられることになるのですが、

「第二の道」においては、始動因というアリストテレス哲学における原因概念が改めて導入されることによって、

より哲学的に洗練された形で宇宙論的証明と呼ばれる神の存在証明の議論が進められているという点に、その論証の具体的な特徴があると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:必然性と偶然性に基づく神の存在証明、トマス・アクィナスの「第三の道」における神の存在証明の議論

前回記事:物体の運動に基づく神の存在証明、トマス・アクィナスの「第一の道」における神の存在証明の議論

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