物体の運動に基づく神の存在証明、トマス・アクィナスの「第一の道」における神の存在証明の議論
前回書いたように、13世紀イタリアの神学者および哲学者であり、中世スコラ哲学の大成者とされるトマス・アクィナスは、
その主著である『神学大全』において、「五つの道」と呼ばれる神の存在証明の議論を展開していくことになります。
そこで、今回からの数回にわたる一連の記事では、こうした『神学大全』の「五つの道」において提示されているトマス・アクィナスの神の存在証明のあり方について、
それが具体的にどのような論証の議論であると考えられるのか?ということを一つ一つ順番に考察していきたいと思います。
「第一の道」における物体の運動に基づく神の存在証明
トマス・アクィナスの主著である『神学大全』(Summa theologiae、スンマ・テオロギアエ)の第一部においては、神の本質と存在のあり方が明らかにされていくなかで、神の存在証明についての議論も展開されていくことになります。
そして、
彼自身が「五つの道」(quinque viae、クインクエ・ウィアエ)と書き記している五通りの神の存在証明のあり方のうちのはじめの一つである「第一の道」においては、
まずは、宇宙におけるあらゆる物体の運動という経験的事実に基づいて神の存在証明が進められていくことになるのですが、
今回の記事では、なるべく具体的な例を多く挙げていくなかで、そうした「第一の道」において示されている論証の具体的な流れを順番に追っていきたいと思います。
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例えば、地面を転がる石や、台の上を転がるビリヤードの球、あるいは、地球に飛来する隕石といった実際に観測される様々な経験的事実から明らかであるように、
この世界の内には、運動する物体が存在すると考えられることになります。
そして、上記の例でいうと、
地面を転がる石は地上を吹く強風などによって動かされ、台の上を転がるビリヤードの球は棒によって突かれたり、先に動いていた前の球がぶつかることによって動き出し、地球に飛来する隕石も、もともとは別の惑星系で生じた天体同士の衝突によって飛ばされてくるというように、
現在、この世界において運動しているすべての物体は、それ以前から運動していた他の物体によって動かされたことによって運動していると考えられることになります。
すると、
ある物体が運動しているのは、その前に運動していた別の物体によって動かされたからであり、その別の物体が運動しているのはさらにその前に運動していた別の物体によって動かされていたからだと考えられることになりますが、
こうした運動の原因の系列をどんどん前へとさかのぼっていくと、宇宙のはじまりから現在までに経過した時間は有限である以上、こうした運動の連鎖を過去へと無限にさかのぼっていくことは不可能であり、
最終的に、どこかの時点において、そうしたあらゆる物体の運動の源流にあるすべての運動の大本の原因となる存在へと行き着くことになります。
そして、
そうしたすべての物体の運動の大本の原因となる存在は、もはや、自分自身の運動の原因を自分以前の別のものの運動に求めることができない以上、
それは、自らは他のあらゆる存在を動かす究極の原因となるが、自分自身の運動は他のなにものによっても原因づけられることのない存在として定義づけられることになりますが、
この世界のあらゆる存在の究極の原因となる存在とは、すなわち、この世界の創造主である神のことを意味することになると考えられるので、
以上のような議論の流れによって、
そうした他のものを動かすが、自分自身は他の何ものによっても動かされることのない「第一動者」としての神は存在すると結論づけられることになるのです。
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以上のように、
トマス・アクィナスの『神学大全』における「五つの道」のうちのはじめの道にあたる「第一の道」においては、
この世界の内には様々な運動する物体が存在するという経験的事実に基づいたうえで、
そうした個々の物体の運動のあり方から、それらのあらゆる運動を引き起こす源となった究極の原因へとさかのぼっていく議論が展開されていくことになります。
そして、こうした一連の議論から、最終的に、
他のものを動かすが、自分自身は他の何ものによっても動かされることのない「第一動者」、すなわち、あらゆる存在を動かす究極の原因としての神の存在が導き出されることによって、
一般的には宇宙論的証明と呼ばれている神の存在証明がなされていると考えられることになるのです。
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次回記事:始動因に基づく神の存在証明、トマス・アクィナスの「第二の道」における神の存在証明の議論
前回記事:神存在論的証明と宇宙論的証明の違いとは?トマス・アクィナスによる神の存在証明の議論②
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