必然性と偶然性に基づく神の存在証明、トマス・アクィナスの「第三の道」における神の存在証明の議論
前回書いたように、トマス・アクィナスの『神学大全』における「五つの道」のうちの二番目の道にあたる「第二の道」においては、
アリストテレス哲学における始動因と呼ばれる原因概念のあり方に基づいたうえで、あらゆる物事の運動と生成変化の根本原因となる究極の始動因としての神の存在が導き出されることによって神の存在証明の議論が進められていくことになります。
そして、その次の道にあたる「第三の道」においては、今度は、存在することが「必然的であるもの」と「可能的であるに過ぎないもの」、
すなわち、必然性と偶然性という観点から、神の存在証明についての議論が展開されいくことになります。
「第三の道」における必然性と偶然性に基づく神の存在証明
トマス・アクィナスの「第三の道」における神の存在証明の議論においては、まずは、世界の内に存在するあらゆる事物は、
「存在することも存在しないことも可能なもの」と、「常に存在していて存在しないことが不可能なもの」という二種類のあり方へと分類することができると主張されることになります。
つまり、
あらゆる存在は、存在していることもあれば存在していないこともあり、現在はたまたま存在しているだけに過ぎない偶然的な存在と、常に自らの存在を保ち続けている必然的な存在という二つの様相的な区分へと分類することができると考えられるということです。
そして、もしも、
世界がそうした二種類の存在のうちの前者である偶然的な存在のみによって構成されているとすると、そうした偶然的な存在としての世界は、それが存在することも可能であれば、存在しないことも可能なものである以上、
悠久の時の流れのなかでは、そうしたすべてが偶然的な存在から成る世界は、そのすべてが非存在であった瞬間、すなわち、世界全体が究極の無の状態にあった時があったと考えられることになります。
しかし、その一方で、無から有は生じないと言われるように、
あらゆる意味においてまったく何も存在しない非存在の状態、すなわち、哲学的な意味における究極の無の状態からは、いかなる存在も生じることがないとも考えられることになるので、
世界が現にいま存在している以上、そうした世界のすべてが偶然的な存在のみによって構成されていることはあり得ず、世界の内には、必ず、自らは常に存在し続けていて、他の偶然的な存在の根拠となっている必然的な存在があると考えられることになります。
そして、
そうした必然的な存在は、それ自身において必然的であるか、他の必然的な存在によって必然的であるかのいずれかであると考えられることになりますが、
「第一の道」や「第二の道」における論証の議論においても示したように、そうした必然的な存在の系列を無限に過去へとたどっていくことは不可能なので、
こうした一連の必然的な存在の系列を、その根拠となるより根源的で必然的な存在へとさかのぼり続けていくと、
いつかどこかの時点で、そうした必然的な存在と偶然的な存在を含めたすべての存在が成立するための究極の根拠となっている他のものによってではなくそれ自身によってのみ必然的な存在へと行き着くことになると考えられることになります。
つまり、以上のような必然性と偶然性をめぐる一連の論証の議論に従うと、
世界が現に存在しているということを説明するためには、そうした世界全体が成立するための究極の根拠となる必然的な存在としての神が実在することが不可欠であると結論づけられることになるのです。
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以上のように、
トマス・アクィナスの『神学大全』に出てくる「五つの道」のうちの「第三の道」における神の存在証明の議論においては、
世界の内に存在するあらゆるものが偶然的な存在と必然的な存在へと分けて捉えられたうえで、
そうした偶然的な存在と必然的な存在の両者を含めたあらゆる存在が成立するための究極の根拠として、それ自身によってのみ必然的である究極の存在が実在することが不可欠であるということが論証されることによって、
世界全体の存立の究極の根拠となる必然的な存在としての神の実在性が証明されていくことになると考えられるのです。
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次回記事:完全性と存在の量的差異に基づく神の存在証明、トマス・アクィナスの「第四の道」における神の存在証明の議論
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