なぜ人を殺してはならないのか?という問いに対する十通りの答え方
なぜ人を殺してはならないのか?という問いに対しては、
例えば、以下のような十通りの答え方があると考えられることになります。
それは、
①法律や規則
②文化と慣習
③宗教的権威
④社会的評価
⑤経済的な損得勘定
⑥親しい人に対する愛情
⑦情動的共感
⑧美的感覚
⑨論理的証明
⑩トートロジー(同語反復)
という全部で十の要素に基づく答え方です。
これから、こうした十通りの答え方のそれぞれにおいて、具体的にはどのような形で「人を殺してはならない」という道徳律を正当化するための理由づけが行なわれることになるのか?ということについて順番に考えていきたいと思います。
法律や規則、文化と慣習、宗教的権威に基づく説明
「人を殺してはならない」という道徳のあり方を説明するのに、最も単純で簡単な説明方法としては、
法律や文化、宗教的権威といった既存の秩序を前提として、そうした既存の権威の力を借りることによって、その道徳的主張の正しさを説明する方法が挙げられると考えられることになります。
例えば、
「なぜ人を殺してはならないのか?」という問いに対して、
法律や規則といった既存の秩序に基づいて答えるならば、「法律でそう決まっているから」という答え方になりますし、
文化と慣習に基づいて答えるならば、「昔からそうだと決まっているから」といった答えが、
宗教的権威に基づいて答えるならば、「神がそのように定めておられるから」「聖書やコーランにそのように記されているから」といった答えが返ってくると考えられることになります。
社会的評価や経済的な損得勘定に基づく説得
それに対して、
質問者である当人自身にも一定の思考を求める答え方としては、社会的評価や経済的利害に基づく説得方法が考えられることになります。
社会的評価に基づく説得では、殺人を行った凶悪な人物として世間のさらし者となってしまうことや、自分自身の社会的な名誉が深く傷つけられることが問題とされ、
損得勘定にに基づく説得では、殺人行為を行った対価として与えられる刑罰や、それによって生じる時間的損失や経済的損失が問題とされることになりますが、
こうした説得方法においては、結局、殺人行為を行うことは長い目で見ると本人にとっても利益よりも損失の方が多くもたらされると考えられることになるので、そうした行為を行わない方が合理的であるという形で説得が行われていくことになるのです。
親しい人に対する愛情や情動的共感、美的感覚に基づく働きかけ
そして、次に取り上げる家族などの親しい人に対する愛情や情動的共感、美的感覚に基づく働きかけにおいては、打算的な判断よりも、人間の感情や感性に直接訴えかける形で説得が行われることになります。
まず、はじめの親しい人に対する愛情については、名誉といった自分に対する社会的評価自体ではなく、自分が殺人を行うことによって残された家族などの自分に親しい人々が被ることになる心理的・社会的なダメージの大きさが問題となり、
その人が、いま現在そばにいる家族などの自分に親しい人々に対する愛情や彼らを思いやる気持ちが十分に強ければ、通常のケースでは殺人という行為に手を染めるのを思いとどまると考えられることになります。
また、情動的共感では、通常の場合人間には相手が感じる痛みなどの感覚や恐怖などの感情を自分の痛みや恐怖であるかのように感じとる共感という感覚が存在すると考えられるので、
そうした共感の感覚に基づいて、殺される相手の痛みや恐怖を敏感に感じとることができれば、そのような大きな痛みや苦痛を生み出す行為は自分にはとてもできないと諦めることになると考えられることになります。
それに対して、
美的感覚に基づく答え方としては、こうした殺される相手の痛みや苦痛に対する同情の念よりも、むしろ、自分自身の心のあり方自体に重点が置かれることになります。
プライドや矜持とも呼びうるようなある種の美的感覚を持ち、自分があるべき理想の姿を重視する人にとっては、
自らの人生と魂を美しく清らかな状態に保つためには、人を殺すというような最大の穢れへとつながる行為は行うべきではないと結論づけられることになり、
人を殺すというような行為は生き方として美しくないので、そうした自らのあるべき理想の姿から離れる行為は、美的感覚という観点からも否定されることになると考えられることになるのです。
論理的証明とトートロジー(同語反復)
それに対して、
「人を殺してはならない」という道徳命題を論理的に証明する方法については、詳しくは、前回までの「人を殺してはならない論理的な理由とは?」のシリーズで考察しましたが、
それは例えば、自分の生命の肯定や人間の平等性といったより根源的で直観的に受け入れやすい命題からスタートして、
そうした根源的で直観的な命題から「人を殺してはならない」という命題を論理必然的に導くことによって一定の説得力を持った論証が行われることになると考えられることになります。
その一方で、最後に取り上げるトートロジー(同語反復)においては、
例えば、
江戸時代の会津藩における藩士の子弟教育の組織であった什(じゅう)の掟にみられるような「ならぬものはならぬ」といった徹底的な規範の刷り込みによって道徳律の正当化が行われることになります。
つまり、こうしたトートロジー(同語反復)に基づく説得方法においては、
「人を殺してはならない」といった人間社会における根本的な道徳や規範は、必ずしも論理的に説明される必要はなく、それはむしろ、呼吸や食事のように当たり前のこととして無条件に承認されるべきものであると捉えられることになるのです。
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以上のように、
なぜ人を殺してはならないのか?という問いに対しては、
①法律や規則、②文化と慣習、③宗教的権威に基づく説明、④社会的評価または⑤経済的な損得勘定に基づく説得、⑥親しい人に対する愛情や⑦情動的共感、⑧美的感覚に基づく働きかけ、そして、⑨論理的証明と⑩トートロジー(同語反復)
という全部で十通りの答え方が考えられることになります。
そして、
これらの十通りの要素のうち、どれか一つでも同意できる要素があれば、「人を殺してはならない」という道徳律はその人の心の内で確実に正当化されることになり、
それがその人にとって人を殺すのを思いとどまる十分な理由になると考えられることになるのです。
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