身体的快楽と精神的快楽における快楽計算のあり方の根本的な違いとミルの質的功利主義への道、快楽計算とは何か?⑯

前回書いたように、

より優れた快楽のあり方を追求していく快楽計算においては、

その計算の対象が身体的快楽であるのか?それとも精神的快楽であるのか?という対象となる快楽の種類の違いによって、

快楽計算を行うための前提や基準が大きく異なることになってしまうとも考えられることになります。

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身体的快楽と精神的快楽における快楽計算のあり方の根本的な違い

そうした身体的快楽精神的快楽との間における快楽計算のあり方の違いについては、すでに快楽計算を構成する七つの要素のそれぞれについて書いた記事の中でも折に触れて考察してきましたが、そうしたことについて改めてまとめ直すと以下のようになります。

例えば、

快楽の持続性については、

それがおいしいものを食べるといった身体的快楽の場合には、食べるという行為からもたらされる快楽は、食べたものが消化吸収されていくにつれて再びお腹が空いてくることによって、比較的短時間の内に消失してしまうと考えられることになります。

しかし、それに対して、

精神的快楽の中でも、特に、書物や芸術などから得られる知的快楽の場合には、そこから得られる知識などによってもたらされる快楽は、時が経つにつれて消え去ってしまったり、薄れたりしてしまうことはなく、

当人が存命である限りは、そうした知識から得られる知的快楽永続的にその人の人生に対して良い影響を及ぼし続けると考えられることになります。

つまり、

身体的快楽は、早いものであれば一瞬、長くても数時間の内にその効力が失われてしまうと考えられるのに対して、

知的快楽などの精神的快楽の場合には、快楽の持続性の長さとして、その人の人生のすべてという、身体的快楽の続く短さと比べれば無限大に近いほどの大きな値が掛け合わされてしまうことになるので、

そのように比較すべき値が大きくかけ離れてしまう両者の快楽のあり方を快楽の持続性の要素を含めた形で同列に評価することは極めて困難であると考えられることになるのです。

また、

快楽の多産性と純粋性の概念についても、

身体的快楽の場合は、それが他の多くの快楽と連鎖的に結びついていくという多産性を満たす快楽となる傾向が強い反面、

例えば、お腹いっぱい食べるという快楽を十分に満たすために食べ過ぎてしまうと後でお腹を壊してかえって苦痛を味わうことにもなり得るように、それは純粋性には乏しい傾向があるともいえますが、

それに対して、

精神的快楽の場合は、一つ一つの快楽がそれぞれの世界の内に完結していて、副作用として苦痛などの他の負の効用を生じさせることのない純粋性の高い傾向があると考えられることになります。

また、

快楽の適用範囲についても、

身体的快楽は、その快楽の源となる資源や物品などを快楽を享受する人々に対して分配することによって一人一人が得られる快楽の取り分自体は減ってしまうのに対して、

精神的快楽の場合には、例えば、同じ音楽を自分一人で聴いても、他の大勢の人々と一緒に聴くことになっても、その音楽自体から得られる快楽の大きさが減ることはなく、むしろ聴衆が一体となることによってかえって快楽が増すこともあるというように、

身体的快楽の場合におけるような快楽の適用範囲の拡大に応じた一人一人の快楽の取り分の逓減といった事態は精神的快楽の場合には生じないという点においても、両者の快楽計算のあり方には大きな違いがあると考えられることになるのです。

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快楽計算における量的な比較の限界とミルの質的功利主義への道

そして、

そもそも、快楽計算における最も基本的な要件である快楽の強度の概念についても、

例えば、

それが、チョコレートケーキを食べる快楽蜜柑を食べる快楽では、どちらの快楽の方がどのくらい大きいのか?といった同じ身体的快楽同士の比較であるとするならば、

個人の食べ物の好みの差などを考慮することによって、ある人にとってチョコレートケーキ1個の快楽の大きさは蜜柑何個分のおいしさに相当するとか、あるいは、そうした個人の好みの集積として、一般的に、チョコレートケーキ1個は蜜柑何個分の効用があるといった量的な比較をすることはある程度可能であると考えられことになります。

しかし、

それが身体的快楽精神的快楽という快楽や効用の評価における根本的な前提が大きく異なる快楽同士の比較となると、その状況が大きく異なってくると考えられることになります。

例えば、

はじめてDNAの二重らせん構造を発見した人物が感じた知的な高揚感としての精神的快楽がチョコレートケーキ何個分のおいしさに相当するのか?といった問いがそもそも答えの出しようのないナンセンス(無意味)問いであると考えられるように、

両者の快楽を同じ評価基準によって比較しようとすること自体が論理的に意味をなさない行為であるとも考えられることになるのです。

つまり、

一般的に、快楽計算を通じた身体的快楽精神的快楽の間の比較においては、

快楽の確実性遠近性といった一部の要素についての部分的な比較は可能であるものの、持続性多産性純粋性適用範囲そして快楽の強度といった快楽計算を構成する他の要素の観点から両者の快楽の比較を適切に行うことは極めて困難であり、

そもそもの根本的な前提が大きく異なる両者の快楽について、その全体的な効用の大きさ同じ基準で比較すること自体が不可能であると考えられるということです。

そして、

以上のような、身体的快楽と精神的快楽という互いに前提条件が大きく異なる快楽を同列に量的な基準のみによって比較することが難しいとする考え方からは、

快楽を量的な視点からのみ評価する快楽計算を超えて功利主義に質的な視点を導入しようとするミルの質的功利主義の立場へと議論が引き継がれていくことになると考えられることになるのです。

・・・

初回記事快楽計算とは何か?①社会全体の幸福のあり方を算定する七つの構成要素

関連記事:ベンサムの量的功利主義とミルの質的功利主義の違いとは?①快楽の質的な差異と精神的快楽の重視

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