「聞く前にも、聞いた後にも、理解することがない」ヘラクレイトスの箴言と真理観

紀元前6世紀後半古代ギリシアの哲学者

ヘラクレイトス(Herakleitos、前540年頃~前480年頃)は、

その断片集の序言にあたる箴言において、
以下のように語っています。

ロゴス論理理法)は、ここに常に示されているのに、
人々は、それを聞く前にも、聞いた後にも理解することがない。

人々は、自分が眠っているときに何をしていたのか
覚えていないのと同様に、

眠りから覚めた後でも、
自分が本当には何をしているのかということについて、
全く何も分かっていないのである。

(ヘラクレイトス・断片1)

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ヘラクレイトス断片集の冒頭に掲げられる箴言

ヘラクレイトスの断片集の編纂は、

ヘラクレイトス自身が
体系的な著述を行うタイプの哲学者ではなく、

箴言という謎めいた形で、断片的に
真理を指し示すという形で哲学探究を行った哲学者だったので、

基本的には、引用文の著者の
アルファベット順に断片が並べられる形で行われているのですが、

この断片と、それに続くもう一つの断片だけは、ヘラクレイトス自身によって
序言として語られていた部分からの引用と考えられているので、

ヘラクレイトスの哲学探究への姿勢と、
その真理観が端的に示されている箴言として、

特権的に、断片集の冒頭に掲げられています。

したがって、

この箴言の言葉は、文字通りに受け取ると、

自分が真理であるロゴスについて言い聞かせても、
人々には、馬の耳に念仏で、聞く耳を持とうともせず、
起きていても、眠っているのと同じような
バカばっかりなのだ

と言っているようなものなので、

一見すると、ものすごく傲慢不遜で、
上から目線もはなはだしい発言ということになりますが、

真理は、決して、単純明快でも、明晰判明なものでもなく、
むしろ、それは、隠れることを好み、
人々の通常の理解の範疇を超えた、難解で不可解な存在である

という

暗き人」(skoteinosスコテイノス)や「謎かけ人
と称されるヘラクレイトスにふさわしい、

ヘラクレイトスの真理観世界観の深淵を垣間見せてくれる
箴言でもあると考えられます。

聞く前にも、聞いた後にも、理解することがない

ここで、もう一つ興味深いこととして、

ヘラクレイトスが、
人々が真理であるロゴスについて理解しないのは、

自分が語る真理について、人々が
「聞いた後」だけではなく、

聞く前にも」それについて理解していない

と嘆いていることが挙げられます。

よく考えてみると、

自分が語る話の内容について、

話を聞いた後で、相手が理解できていないというのは、
聞き手の側の能力と理解力の問題かもしれませんが、

話を聞く前に相手が理解できないのは当たり前のことなので、

聞いた後に理解してくれないことを嘆くのはともかく、
聞く前にも理解していないと嘆くのは、

道理が通らない、
変な事を言っているようにも思えます。

つまり、

真理について聞く前に理解できないのは、当たり前じゃないか、
だって、まだ、それについて何も語られていないのだから

というわけです。

しかし、

ヘラクレイトスは、この箴言で語られている通り、

人々が真理について自分が語ることを
それを聞く前に理解していないことを嘆き、

人々は、自分が語る前に、
真理であるロゴスについて、すでに知っているべきだと
本気で考えていた

と考えられるのです。

少し逆説的な言い方になりますが、

真理について、それを「聞く前」に分からないでいるような人は、
結局、それを「聞いた後」でも何も分からないだろう

とヘラクレイトスは考えていたということです。

ヘラクレイトスにとって真理とは、
この箴言の冒頭でも語られている通り、

ここに常に示されている」ものであり、

自らの心の内にも、世界のあらゆる部分にも表れていて、
目の前に現れている、すなわち、現前する存在です。

しかし、

真理が現前しているということと、

それが誰にでも理解される
単純明快で明晰判明なものであるということは、

必ずしも一致することではありません。

真理であるロゴスは、

張りつめた弓、竪琴に張り渡された弦

流れゆき流転する川

上り道と下り道

など、

世界の内のあらゆる存在、心の内のあらゆる概念に表れていて、
現前してはいるのですが、

ヘラクレイトス自身も、

自然(physis、ピュシス)は隠れることを好む

(ヘラクレイトス・断片123)

と語っているように、

それは同時に、隠れることを好む、不可解な存在でもあります。

つまり、

真理は、現前してはいるが、
明晰判明に理解することは困難な存在である

ということになるのです。

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直観としての真理

しかし、その一方で、

真理であるロゴスが、様々な形で
人々の目の前に現れているということは、確かなので、

その現前するロゴス
現前する真理を知るためには、

他のいかなる知識推論実験観察なども必要ではなく、

ただ、自分自身の知性だけがあれば、それによって、
自分で直接、真理に到達することができる

ということになります。

これは、

博識は覚知を授けず」で述べたのと同じような

量としての知識に対する批判的な考え方にも通じる思考になりますが、

つまり、

真理であるロゴスを理解するためには、

誰の教えを受けることも必要とせず、
他のいかなる知識推論をも必要とせずに、

自らの知性のみによって、
真理は、

直観intuition、推論によらず直接的に対象の本質を捉える認識能力

することができる

ということです。

以上のことを踏まえて、
冒頭のヘラクレイトスの箴言について再び語り直すと
以下のようになるでしょう。

真理は、いつも目の前に現れている

しかし、

人々は、自分の心の内深く洞察し、
自らの知性によって、真理であるロゴスを
直観することができないでいるので、

まるで、身体は目覚めているのに、
その精神はいつまでも眠り続けているかのように、
目の前に現れている真理を自分の手でつかみ取ることができないでいる。

そして、

世の中のほとんどの人は、
そのまま、決して目覚めることがなく、

人から聞く前に自らの知性によって
真理を直観することができないのだから、

人から聞いた後でも、当然
真理であるロゴスについて理解することができないでいるのだ。

・・・

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