「万物は流転する」と「ゆく河の流れ」(方丈記)の違い

古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトス(前540年頃~前480年頃)の

万物は流転する」(panta rheiパンタ・レイ

という言葉に象徴される

万物の生成変化の思想は、

しばしば、

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」ではじまる

鴨長明(かものちょうめい、1155年~1216年)の
方丈記』の思想と対比され、

どちらも、

世界が絶え間なく移ろい変化していくという変化の相と、

無常観(この世の中の一切のものは常に移ろい変化していくという世界観)

を言い表しているという点で、
両者の類似性が指摘されることが多いですが、

両者の思想には、根本的に異なるところがあると考えられます。

そこで、これから、

両者の思想はどのような部分が異なっているのか?

ということについて、具体的に考えてみたいと思います。

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変化する個々の事物と、不変なる自然の総体

鴨長明の『方丈記』は、

ゆく河の流れは絶えずして
しかももとの水にあらず

(鴨長明『方丈記』冒頭部)

という言葉ではじまり、

これを現代語訳すると、

川の流れは途絶えることなく流れ続けていて、
それでいて、そこを流れる水は元の同じ水ではない

ということになります。

ゆく河の流れの世界観の詳しい分析については、

「国破れて山河在り」(春望)と「ゆく河の流れ」(方丈記)の世界観

で考えたので、重複して書くことは避けますが、

一つ注目すべき点として、

方丈記』の「ゆく河の流れ」においては、

絶えず移り変わっていき、同じ状態にとどまることがない
無常の存在として挙げられているのは、

「この世に生きる人間とその住処」と「」、
そして、川の中を「流れる水」であって、

川の流れの全体、すなわち、
川自体は、むしろ、不変なる悠久の自然の姿
として描かれている、

ということがあります。

つまり、

ゆく河の流れの世界観では、

決して、

この世界のすべての存在が、一様に流れ去ってしまうわけではなく、

川の中を流れる水といった、
自然の中の個々の事物は、生成変化していくが、

川の流れの全体、川自体といった、
悠久なる自然の総体の姿は、不変であり、常に変わることなく在り続ける、

ということです。

自然の総体がその土台ごと流転する

これに対して、ヘラクレイトスの哲学の、

パンタ・レイ万物は流転する

という言葉に象徴される世界観は、
その趣が大分違うことになります。

万物は流転する」(panta rheiパンタ・レイ)とは、

panta(すべてのもの)」+「rhei(流れる)」

という語の構成で、そのまま、

すべての存在、流れ去り変化していく、

という意味ですが、

この「パンタ・レイ」という言葉自体は、

本来、ヘラクレイトス自身の言葉ではなく、
のちに、プラトンの解釈によって要約された概念で、

ヘラクレイトス断片として残っている以下の言葉の方が、
実際にヘラクレイトスが語った言葉の形には近いとされています。

同じ川に二度入ることはできない

(ヘラクレイトス・断片91)

つまり、

ヘラクレイトスは、

川の中の個々の水が流れ去って別の水になってしまうならば、
その水の集合体である川自体も、もはや、
同じ川と言うことはできず、

川を流れる個々の水が、生成変化しているだけでなく、
その水の総体である川自体も、生成変化している

と考えたということです。

これは、

現実の世界では、

個々の事物も、その集合である
自然の総体も、

そのすべてが、全部丸ごと、
土台から覆され生成変化していく

と言っていることになります。

以上のように、

方丈記』の「ゆく河の流れの世界観では、

自然の中の個々の事物は、絶え間なく生成変化していくが、その全体である
自然の総体は、不変で、変わることなく在り続ける

と捉えられていたのに対して、

ヘラクレイトスの「万物は流転する」(パンタ・レイ)、ないし、
同じ川に二度入ることはできない」では、

個々の事物が生成変化していくだけではなく、その全体である、
自然の総体までもが、その土台ごと丸ごと変化し、流転していく

と捉えられている点が、その思想において、
根本的に異なると考えられるのです。

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世界の拠り所としてのロゴスの不変性

このように、

ヘラクレイトス

万物は流転する」(パンタ・レイ

では、

川を流れる水だけではなく、
川自体までもが変化していくので、同じ川ではあり得ず、

自然の総体も絶えず生成変化して移ろい、
一定の姿など持ってはいない、

という

より変化の相強調された
世界観が展開され、

個々の事物も、自然の総体も、関係なく、

現実の世界における事物の側には、
同一性一貫性も一切存在しないない、

ということになるわけですが、

それでは、ヘラクレイトスにとっては、

この世界は、すべてが変化し、移ろっていく、
どこにも拠り所がない
無秩序デタラメな世界なのか?

というと、

決してそういうわけではない

ということになります。

ヘラクレイトスは、

こうした自然の変化の全体は、
その背後にある

ロゴスlogos論理理法

によって司られていて、

の一なるロゴス論理理法)によって
万物は成り立っている

と考えていました。

自然を司るロゴス論理理法

とは、

現代風に言えば、さしずめ、

自然法則の総体や、

万物理論Theory of Everything、自然界に存在する4つの根源的な力である電磁気力・(素粒子の間に働く)弱い核力・(原子核を構成する)強い核力重力統一的記述する理論の試みであり、完成すれば、宇宙のすべてをこの理論によって説明することができるとされている。)

ということになりますが、

ヘラクレイトスにおいては、

自然人為との区別をも超えて、

自然現象だけでなく、

人間の精神や意識の謎や、の秘密をも解き明かす
究極の根源的原理、唯一の哲学的真理として、

ロゴスが捉えられていたと考えられます。

以上のように、

方丈記』の「ゆく河の流れ」の世界観では、

悠久なる自然の総体の姿に
世界の拠り所一貫性が見いだされていたのに対して、

ヘラクレイトスにおいては、

自然自体の壮大な姿や、
その悠久なる不変性の方へは目が向けられず、

むしろ、

自然の世界現実の世界
目に見える世界背後にあり、

そのすべてを司っている

ロゴス論理理法

不変性の方へと
その目が向けられていたと考えられるのです。

・・・

ヘラクレイトスの哲学の概要

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