ペルシア戦争の第一回ギリシア遠征における将軍マルドニオスの進軍とアトス岬での暴風によるペルシア海軍の大破と撤退
前々回の記事で書いたように、紀元前499年にはじまったミレトスの僭主であったアリスタゴラスを首謀者とするイオニアのギリシア人植民市によるアケメネス朝ペルシアへの反乱であるイオニアの反乱においては、
反乱が起きた当初は、アテナイやエレトリアといったギリシア本土の都市国家からの加勢もあって、ペルシア帝国の重要都市の一つであったサルディスを炎上させるなど、反乱軍の側が大きな戦果を挙げていくことになります。
しかしその後、ペルシアの王であったダレイオス1世が派遣したペルシア軍の討伐部隊による激しい追撃によって、ギリシア本土から来たアテナイ人とエレトリア人の支援部隊はギリシア本国への撤退を余儀なくされることになり、
紀元前494年にミレトスが陥落することによって、およそ6年におよんだイオニアの反乱はついにその終結を迎えることになります。
そしてその後、こうしたイオニアの反乱における因縁をきっかけとして、
アテナイやスパルタを中心とするギリシアの都市国家群とアケメネス朝ペルシア帝国とのヨーロッパの覇権をめぐる世界戦争ともいえる戦いであるペルシア戦争の戦端が開かれることになるのです。
第一回ギリシア遠征におけるペルシアの将軍マルドニオスの進軍
古代ギリシアの歴史家であったヘロドトスの記述によれば、こうしたペルシア戦争と呼ばれるアケメネス朝ペルシアによるギリシア遠征は、大きく分けて三回に分けて行われていくことになったとされていて、
そのうちの第一回のギリシア遠征にあたるペルシア戦争の前哨戦とも言える戦いは、イオニアの反乱が終結してから2年ほど経った紀元前492年に行われることになります。
イオニアの反乱の平定したダレイオス1世は、その後、
反乱軍に加勢したのちに、形勢が不利になるとギリシア本国へと海を越えて逃げ帰っていったアテナイ人やエレトリア人といったギリシア人たちへの強い怒りと復讐心を抱くと同時に、
かねてから狙っていた西方への帝国の領土拡大への野心から、ギリシアを含むヨーロッパ地域への大規模な遠征計画へと着手していくことになります。
そして、その後、
紀元前492年に、十分な軍備を整えたダレイオス1世は、自らの甥であると同時に娘婿(むすめむこ)でもあった将軍マルドニオスに命じて、
ギリシアの北方に位置するトラキアからマケドニアそしてテッサリアからギリシアへと至るヨーロッパにおける広大な地域をペルシア帝国の支配下へと組み入れていくために、陸軍と海軍の大軍をギリシア遠征へと向かわせることになるのです。
ペルシア海軍によるタソス島の制圧とペルシア陸軍によるトラキアの平定
こうしたペルシア戦争における第一回のギリシア遠征において、
ペルシア軍の大艦隊は、まずは、ギリシアとペルシア帝国の間を隔てているエーゲ海を北へと進んでいったのち、エーゲ海の最北部に位置する島であるタソス島を制圧することになります。
そして、その後、ペルシア海軍は、
将軍マルドニオスが率いる陸路を進むペルシア陸軍と連携しながらトラキアからマケドニアへと至るヨーロッパ大陸の海岸沿いを航行していくなかで、
こうしたギリシアの北方に位置するヨーロッパ地域の大部分がペルシア帝国の支配下へと組み込まれていくことになるのです。
アトス岬の暴風によるペルシア艦隊の大破とペルシア本国への撤退
そして、その後、
ペルシアの大艦隊は、マケドニアの南東部に位置するアトス山がそびえる岬を回って西方へと進路を取ったのち、テッサリアを経てついに宿敵であるアテナイ人がいるギリシア本土へと向かおうとすることになるですが、
ちょうど艦隊がアトス岬を迂回しようとしていた時に、急激な暴風に見舞われることになり、激しい風によって険しい岸壁へと船体をたたきつけられることになったペルシア艦隊は、その大部分が大破してしまうことになり、
ヘロドトスが伝えるところによれば、こうしたペルシア戦争における紀元前492年の第一回のギリシア遠征におけるアトス岬の暴風によって受けたペルシア海軍の損害は、300隻の軍船と2万人以上の死者にまでおよぶことになったと伝えられています。
そして、こうしたアトス岬でのペルシア艦隊の大破と時を同じくして、
トラキアを平定したのちペルシア陸軍を率いてマケドニアへと進軍を続けていた将軍マルドニオスは、
この地で原住民の部隊からの襲撃を受けることによって、数多くの戦死者を出すと同時に、マルドニオス自身も負傷してしまうことになり、
陸路と海路の両方で大打撃を受けることになったアケメネス朝ペルシアの遠征部隊はペルシア本国への撤退を余儀なくされてしまうことになります。
そして、以上のように、
こうしたダレイオス1世の命によって紀元前492年に行われた将軍マルドニオスが率いる第一回のギリシア遠征においては、
ギリシア側にとっては、まさに日本の元寇における神風を思わせるようなペルシアの艦隊を大破させたアトス岬の暴風などの影響もあり、
ペルシアの陸軍と海軍の大軍は両方とも、最終的な目的地にあたるギリシア本土へとたどり着く前に、ペルシア本国へと撤退することになってしまったと考えられることになるのです。
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次回記事:ペルシア戦争の第二回ギリシア遠征におけるダティスとアルタプレネスの進軍とエレトリアの滅亡
前回記事:ペルシア戦争は侵略戦争だったのか?ペルシア人の視点に立ったアテナイ人への正当な復讐を果たす正義の戦いとしての位置づけ
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