ペルシア戦争は侵略戦争だったのか?ペルシア人の視点に立ったアテナイ人への正当な復讐を果たす正義の戦いとしての位置づけ
世界史におけるペルシア戦争と言えば、一般的には、
古代オリエント世界を統一した巨大な専制国家であったペルシア帝国が古代ギリシアを中心とするヨーロッパ世界への領土拡大を目指して行ったアジアからヨーロッパへの侵略戦争として位置づけられることが多いと考えられ、
ギリシア人の側の視点に立つと、この戦いは、
アジアにおける専制主義の帝国から民主主義勢力にあたるアテナイを中心とするギリシア人たちが自らの国土を守りきった正義の自衛戦争として位置づけられることになります。
しかしその一方で、
ギリシア人からは侵略者として位置づけられているペルシア人の側の視点に立って、この戦争が起きた背景について改めて深く考えていくと、
そうしたペルシア帝国からギリシア世界への一方的な侵略戦争としての位置づけとはまったく違った側面が見えてくると考えられることになります。
イオニアの反乱でのアテナイ人の参戦とダレイオス1世の復讐の誓い
詳しくは前回の記事で書いたように、
ペルシア戦争の直接的な原因となったと考えられる紀元前499年に起きたイオニアの反乱においては、当初はアテナイやエレトリアといったギリシア本国からの援軍が反乱軍と合流することによって、
反乱軍の軍勢はアケメネス朝ペルシアの王の道の終着地にもなっていった重要な都市であったサルディスに奇襲攻撃を仕掛けて都市を焼き払うといった大きな戦果を上げていくことになります。
しかしその後、
アケメネス朝ペルシアの王であったダレイオス1世によって派遣された討伐部隊が到着して反撃を開始するとギリシア側の軍勢は総崩れとなって、アテナイ人たちは海を越えてギリシア本国へと逃げ帰ってしまうことになり、
紀元前494年にミレトスが陥落することによって、およそ6年におよんだイオニアの反乱はついにその終結の時を迎えることになります。
そして、こうしたイオニアの反乱のさなか、
戦地から遠く東へと離れたペルシア帝国の王都スサにおいて、イオニア人の反乱の知らせとサルディス炎上の一報を聞いたペルシアの王ダレイオス1世は、
この反乱の首謀者のなかに、それまでペルシア帝国とは一応の友好関係にあったアテナイ人たちが含まれていたことを知るとことのほか強い怒りを示したと伝えられています。
そしてその後、ダレイオス1世は、反乱が鎮圧された後も、
アケメネス朝ペルシアによるギリシア遠征にあたるペルシア戦争の開戦へと至るまでの間、自分のもとに仕えていた従者の一人に命じて、
「大王様、アテナイ人のことを決して忘れてはなりませぬ。」という言葉を毎日、三回ずつ、食事の前に必ず唱えさせることにしていて、
ダレイオス1世は、その言葉を聞くたびに、ペルシアの都市を焼き払い、町の人々を殺して海の彼方へと去って行ったアテナイ人たちへの復讐を自らの心に固く誓っていくことになったと語り伝えられているのです。
「リメンバー・パールハーバー」と「リメンバー・ジ・アテニアンズ」
ちなみに、
こうしたペルシアの王ダレイオス1世が従者に唱えさせることによって自らの心に復讐を誓い続けていた言葉は、英語で書くと、
“Master, remember the Athenians!“(マスター・リメンバー・ジ・アテニアンズ)と表記さることになります。
そして、そういった意味では、
こうしたイオニアの反乱におけるアテナイ人たちからの奇襲攻撃によるサルディス炎上に対するペルシア人たちの思いには、
まさに、
太平洋戦争における真珠湾攻撃に対してアメリカ人たちが口にした“Remember Pearl Harbor!“(リメンバー・パールハーバー)という言葉や、
その原型となったメキシコとのテキサス独立戦争のさなかに起きたアラモの戦いに対して叫ばれた“Remember the Alamo!“(リメンバー・ジ・アラモ)
といった言葉にも匹敵する強い怒りと復讐心が込められていたとも考えられることになるのです。
アテナイ人への正当な復讐を果たす正義の戦いとしてのペルシア戦争
いずれにしても、
こうしたペルシア戦争の直接的な原因となることになったイオニアの反乱においては、反乱軍への援軍としてアテナイ人たちも数多く参戦することによって、
それまでペルシア人からはいかなる攻撃も加えられていなかった西方の小国であるアテナイの側から、東方の大国であるペルシア帝国へと奇襲攻撃ともいえる先制攻撃を仕掛けることになってしまったため、
歴史的な経緯としては、そうしたイオニアの反乱におけるサルディス炎上に対するある意味では当然の報いとして、ペルシア帝国の側からのギリシアへの侵攻にあたるペルシア戦争の戦端が開かれることになったと考えられることになります。
そして、そういった意味では、
こうしたペルシア戦争と呼ばれるアケメネス朝ペルシアによるアテナイを中心とするギリシア世界への遠征にあたる世界戦争は、
ペルシア人たちの立場から見れば、
イオニアの反乱の際に、先に戦いを仕掛けてきて、奇襲攻撃によって帝国の主要都市まで焼き払っておきながら、形勢が不利になると代償も払わずに海を越えてギリシア本国へと逃げ帰ってしまった卑怯なアテナイ人たちに対する正当な復讐を果たすための正義の戦いであったと考えられることになるのです。
・・・
次回記事:ペルシア戦争の第一回ギリシア遠征における将軍マルドニオスの進軍とアトス岬での暴風によるペルシア海軍の大破と撤退
前回記事:イオニアの反乱におけるサルディスの炎上とミレトスの陥落
「古代ギリシア史」のカテゴリーへ