『ラストハルマゲドン』と『妖怪人間ベム』の関係とは?醜い悪しき怪物のような姿をした妖怪人間と魔族たちの正しく美しい心
前回の記事では、1968年に制作されたテレビアニメ作品である『妖怪人間ベム』と、1984年に製作された日本を代表するアニメ映画作品である『風の谷のナウシカ』の両者の作品に共通する
生命や人間といった存在を美と醜、正と邪、善と悪の要素を両面ともあわせ持った存在として捉える世界観のあり方について考察してきました。
そして、
こうした妖怪人間の物語と互いに似通ったところのある世界観やコンセプトのようなものを見いだすことができる作品としては、その他にも、
1988年、ゲームソフト制作の黎明期に発売されたコンピュータRPGである『ラストハルマゲドン』(Last Armageddon)というタイトルのゲーム作品の存在も挙げることができると考えられることになります。
『妖怪人間ベム』と『ラストハルマゲドン』に共通する世界観とは?
『妖怪人間ベム』では、
醜い身体の内に悪を憎む正しい心を宿したベム、ベラ、ベロという名の三人の妖怪人間たちが、
自らの正しく美しい心にふさわしい人間としての清らかな身体を手に入れることを強く願いながら自らの正義の心がおもむくままに人助けを続けていく物語が描かれていくことになりますが、
それに対して、
『ラストハルマゲドン』のなかでは、
人類が滅亡した後の地球を支配することになったゴブリンやスケルトン、ガーゴイルやサイクロプスといった醜い怪物のような姿をした魔族たちが、
地球を侵略してきたエイリアンたちとの戦いのなかで、自分たちではそれとは知らぬ間に、自らの本当のルーツを知る旅へと導かれていくことになり、
最終的に、自分たちが創り出された本当の理由を知ることになった魔族たちは、自らの本来の姿、すなわち、人間としての肉体を取り戻すことによって物語のエンディングを迎えることになるのです。
『ラストハルマゲドン』において語られる人類が滅亡した本当の理由
また、前々回の記事でも書いたように、
『妖怪人間ベム』の物語のなかでは、悪しき行いに手を染める人間たちの愚かな姿を目にした妖怪人間ベムが、
「悪は滅びた。あいつは姿こそ人間だが、心は悪魔だった。死んだ方があいつも救われる。」
というセリフを残す印象的なシーンが出てきますが、こうしたセリフと似たような言葉が語られている箇所は、『ラストハルマゲドン』のストーリーのなかにも見いだすことができると考えられ、
そこでは、人類が滅亡した本当の理由がこの物語の主人公である魔族たちに解き明かされる場面で、
「人類を滅ぼしたのは、君たち魔族ではないよ。人類の心の中の悪魔だ。戦争も、それに付随して起こった惨劇も、全てはこのせいだ。その悪魔が実体化されて、人類を滅ぼしたのである。」
という言葉が語られることになるのです。
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以上のように、
『妖怪人間ベム』というアニメ作品と『ラストハルマゲドン』というゲーム作品の間には、
前者の『妖怪人間ベム』のなかでは、妖怪人間たちは物語の最後まで人間の姿を手にすることはできないのに対して、後者の『ラストハルマゲドン』のなかでは、魔族たちは実際に人間の姿を取り戻すことで物語がエンディングを迎えることになるといった点には違いが見られるものの、
両方の作品とも、
醜い悪しき怪物のような姿をした妖怪人間や魔族たちの方が人間にふさわしい正しく美しい心を持っているのに対して、
本来そうした正しく美しい心を持つべき存在である人間の方は、実際には自らが持つ悪魔のような醜い心によって互いに傷つけあい、滅亡への道を進んでいくことになるといった形で、
妖怪人間や魔族といった存在における悲哀と、人類の愚かさが対照的に示されているといった点に、互いに共通する世界観のあり方を見いだしていくことができると考えられることになるのです。
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次回記事:妖怪人間と古代ローマの詩人ユウェナリスの教訓、健全な身体と健全な精神はどちらの方がより強く望まれるべきなのか?
前回記事:『妖怪人間ベム』と『風の谷のナウシカ』に共通する世界観とは?醜さや闇のうちにこそ見いだされる新たな希望と光
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