「妖怪人間ベム」の物語に込められた現代の人間に対する警鐘とは?醜い身体と正しい心を持つ妖怪人間の対極にある存在
前回の記事で書いたように、1968年制作のテレビアニメ作品である『妖怪人間ベム』においては、
悪を憎んで善を為そうとする正しい心と人間とは似ても似つかない醜い身体とを持ったベム、ベラ、ベロと呼ばれる三人の妖怪人間たちが、
自らの正しく美しい心にふさわしい人間としての清らかな身体を手に入れるためにもがき苦しみ、思い悩みながらも、
そうした自らの正しく美しい心のゆえに、悪しき人々によって苦しめられている弱き人々を自らの身の危険を冒してまで助けて悪を倒していくという
人間になることを強く願いながら人助けを続けていく妖怪人間たちの生き方が描かれていると考えられることになります。
つまり、
この物語の主人公である妖怪人間たちは、そうした「はやく人間になりたい!」という強い思いから、自らがなりたいと望み願っている理想の存在である人間たちを助けてくれていると考えられることになるのですが、
その一方で、
そうした妖怪人間たちが自らの妖力を駆使することによって倒している敵となる悪しき存在も、多くの場合には人間であると考えられることになります。
醜い身体の内に正しい心を持つ妖怪人間と、整った身体の内に醜い心を持つ悪しき人々
そして、この物語のなかでは、
時折、こうしたベム、ベラ、ベロと呼ばれる三人の妖怪人間たちは、本来、自分たちがなりたいと思っている理想の存在であるはずの人間たちが行う悪事の数々を目にしていくなかで、
そうした自分たちがなりたいと思っている人間という存在は、本当の意味ではいったいどのような存在のか?ということについて戸惑い思い悩むようなシーンが度々登場してくることになります。
例えば、
『妖怪人間ベム』の第18話『謎の彫刻家』という題の物語の中では、
本物の人間にそっくりの彫像をつくり上げようとすることに熱中するあまり、生きた人間を材料にすることによって石膏像をつくり上げていくという狂気に取りつかれた彫刻家が出てきますが、
この物語の中で、
「俺は芸術家だ、俺は偉いんだ」と叫びながらベラに襲いかかっていき、勢い余って自ら煮えたぎるドロドロに溶けた石膏の中に飛び込んで壮絶な死を遂げることになるその狂った彫刻家の最期の姿を目にした妖怪人間ベムは、
最後に、
「悪は滅びた。あいつは姿こそ人間だが、心は悪魔だった。死んだ方があいつも救われる。」
という言葉を残して、この物語は終幕を迎えることになります。
心の醜い本当の妖怪人間は人間自身の側なのではないか?という問い
このように、
醜い身体と正しく美しい心を持った妖怪人間たちの姿やその生き方からは、
その対極にある存在として、
身体こそは人間の姿かたちをしてはいるが、その内面には悪魔や怪物のように醜い心を持った人間の姿が浮かび上がってくることになります。
そして、
こうした人間としての整った身体を持ちながらその内に醜い心を秘めている人々は、身体の清らかさと心の正しさを兼ね備えることのできないベムやベロたちと同様に、不完全で半人前な妖怪のような存在であると捉えられることになるのですが、
さらに言うならば、
こうした悪魔や怪物のように醜い心を持つ人々は、ベムやベロといった妖怪人間たちとは反対に、醜い身体の代わりに醜い心を持っているという意味において、
そうした悪しき心を持つ人々は、善き心を持つベムやベロたちとは別な種類のより劣った妖怪人間であるということが示されていると考えられることになります。
つまり、
こうした『妖怪人間ベム』の物語の中で描かれている醜い身体の内に正しい心を持つ妖怪人間の姿やその生き方からは、その姿が鏡のように働くことによって、人間自身の存在の内にある心の醜さにも気づかされることになり、
その物語を見ている人間自身の方が心の醜い本当の妖怪人間なのではないか?という問いが自らの心の内に投げかけられていくことになるという意味において、
そこからは現代の人間の生き方に対する戒めや警鐘のようなものを読み取っていくこともできるとも考えられることになるのです。
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次回記事:『妖怪人間ベム』と『風の谷のナウシカ』に共通する世界観とは?醜さや闇のうちにこそ見いだされる新たな希望と光
前回記事:「闇に隠れて生きる」「はやく人間になりたい!」という妖怪人間の言葉に込められた人間という存在に対する強い思いとは?
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