自由意志と道徳法則と実践理性の三位一体の関係、カントの『実践理性批判』の冒頭部分における純粋実践理性についての記述

以前に「理論理性と実践理性の違い」の記事で書いたように、カントの倫理学においては、実践理性と呼ばれる概念は、

普遍的な道徳法則から人間の意志に基づく実践的な道徳行為を導き出していくという人間の生き方における実践的な行為に関わる理性の働きのあり方のことを意味する概念として定義されていくことになると考えられることになるのですが、

カントの主著の内の一つである『実践理性批判』においては、

こうした実践理性と呼ばれる理性の働きのあり方は、普遍的な道徳法則人間における自由意志との関係からその存在のあり方が捉えられていくことになります。

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カントの『実践理性批判』の冒頭部分における純粋実践理性についての記述

『実践理性批判』第一部第一篇の第一章においては、

人間の意志における自由と、無条件的な実践的法則としての普遍的な道徳法則、そして、純粋実践理性としての実践理性の三者の間には、具体的には以下のような関係性が成立していると語られていくことになります。

・・・

それだから自由無条件的な実践的法則とは、我々がその一方を挙げれば必ず他方もまた引き合いに出されるような相互的関係をなしている

しかし、ここで私が問おうとするのは、この両者が実際において互いに異なるものであるか、むしろ、無条件的な実践的法則は、純粋実践理性の自己意識にほかならないのではないか

すると、このような純粋実践理性は、自由の積極的な概念とまったく同じものなのではないだろうか、といったことではなく、

そもそも無条件的に実践的なものに関する我々の認識はどこから始まるのか自由からかそれとも実践的法則からなのか、ということなのである。

(カント『実践理性批判』波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、岩波文庫、69~70ページ参照)

・・・

このように、上述した『実践理性批判』における記述においては、

人間の意志における自由と、無条件的な実践的法則としての普遍的な道徳法則の間には、互いに不可分な相互的関係が成立していて、

さらに、そうした無条件的な実践的法則としての普遍的な道徳法則は、純粋実践理性の自己意識にほかならないという意味において、実践理性とも不可分な関係にある存在であり、

そうした実践理性の概念は、人間の意志における自由の積極的な概念とまったく同じものであるという意味において、自由の概念と不可分な関係にあるということが示唆されたうえで、

その後の本文における議論の流れは、

この書物が書かれた主要な目的である「無条件的に実践的なものについての認識」、すなわち、人間の心における普遍的な道徳性の認識のあり方についての探求へと進んでいくことになると考えられることになります。

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自由意志と道徳法則と実践理性の三者における三位一体の関係

そして、

前述したようなカントの『実践理性批判』における記述に基づくと、

人間の意志における自由と、無条件的な実践的法則としての普遍的な道徳法則、そして、純粋実践理性としての実践理性の三者の間には、

自由道徳法則との間には互いに不可分な相互関係が成立していて、

道徳法則実践理性とは、前者が後者の自己意識にほかならないという意味において互いに不可分な一体の関係にあり、

実践理性自由とは、前者が後者の積極的な概念にあたるという意味において、やはり、互いに不可分な一体の関係にあると捉えることができると考えられることになるのですが、

つまり、そういった意味では、

こうしたカントの倫理学においては、

人間における自由意志普遍的な道徳法則そして実践理性の三者の間には、互いの存在が互いにとって不可分で一体的な関係にあるという三位一体の関係性が成立していると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:「嘘をついてはならない」という命題が定言命法に基づく普遍的な道徳法則の例として挙げられている深遠なる理由とは?

前回記事:定言命法と仮言命法の違いとは?カントの倫理学における二つの道徳的な命令形式のあり方の具体的な意味の違い

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