完全性と存在の量的差異に基づく神の存在証明、トマス・アクィナスの「第四の道」における神の存在証明の議論
前回書いたように、トマス・アクィナスの『神学大全』における「五つの道」のうちの三番目の道にあたる「第三の道」においては、
世界の内に存在するあらゆるものが偶然的な存在と必然的な存在という二つの様相的な区分へと分類されたうえで、その両者を含めた世界全体の存立の究極の根拠となる必然的な存在としての神の実在性を論証する議論が展開されていくことになります。
そして、それに対して、四番目の道である「第四の道」においては、
今度は、世界の内にある様々な存在における存在の量的な差異と完全性という観点から、神の存在証明についての議論が展開されいくことになります。
地上のあらゆる光の原因となる太陽の光と、フライパンの熱さの原因となるコンロの火
トマス・アクィナスの「第四の道」における神の存在証明の議論では、まずは、世界の内に存在するあらゆる事物には、
より多く善なるものとより少なく善なるもの、あるいは、より多く真なるものとより少なく真なるものというように、
それぞれの存在が有する性質の大きさには量的な差異があると捉えることができるという観点から論証の議論が進められていくことになります。
例えば、
フライパンで牛肉を焼いてステーキを作っている時、フライパンの上で焼かれている牛肉とフライパンとコンロの火という三者のなかで、
最も熱いのはコンロの火であり、その次に熱いのはフライパン、そして、最も熱さが劣るのは牛肉であるという関係性が成立していると考えられることになります。
つまり、
熱の大きさという点においては、コンロの火が最も熱量が大きく、その次はフライパン、そして、牛肉はそれよりもさらに熱量が小さいというように、
牛肉と、フライパン、そして、コンロの火という三者の存在の間には、熱の存在という観点において量的な差異があると考えられることになるのです。
そして、この場合、
牛肉が熱く焼けているのは、フライパンが熱いからであって、さらに、そのフライパン自体が熱いのは、それを下から熱しているコンロの火が熱いからであると考えられることになりますが、
こうしたことからは、牛肉の熱さの原因はフライパンの熱さに求められ、さらに、そのフライパンの熱さの原因はコンロの炎の熱さに求められるというように、
最も熱いものは、それよりも熱さが劣るものの熱さの原因となっているということが分かります。
別な例を挙げるとするならば、例えば、
湖面に光る水のきらめきや、日中の空の明るさ、夜の月の光といった地球上における自然的な光のほとんどは、その大本の由来を太陽の光に求めることができると考えられることになりますが、
この場合、この世界で最も明るい存在である太陽の光は、こうした地上におけるあらゆる光の源であり、それらの存在の明るさの原因となっていると考えられることになります。
つまり、そういう意味においては、
地上におけるあらゆる光は、それらの光の明るさを超えた最も明るい光を持った最大限に明るい存在である太陽の光が存在することによってのみ自らの明るさを有することができると考えられることになるのです。
あらゆる存在は最も完全な存在である神を根拠とすることによってのみ存在する
そして、
こうしたコンロの火とフライパンにおける熱の量的な差異や、太陽の光と地上の光における明るさの量的な差異などと同様に、
真実性や善性、存在そのものといったあらゆる性質や概念についても、その存在のあり方には、より大きいより小さい、あるいは、より多いより少ないといった量的な差異があり、
ある程度明るい存在や、ある程度善い存在といったもののように、それぞれの性質を最大限に持つものと比べると、その存在のあり方が量的に劣っているものは、
その性質や概念を最大限に有する最も完全な存在によって根拠づけられることによって、その性質を有していると考えられることになります。
つまり、
すべての明るいものは、最大限に明るいものによって自らの明るさが根拠づけられ、あらゆる善いものは最大限に善いものによって自らの善さが根拠づけられているように、
あらゆる存在は最大限に存在するという完全性を備えた存在によって根拠づけられることによって、自らの存在が根拠づけられていると考えられることになるのです。
そして、
以上のような完全性と存在の量的な差異をめぐる一連の議論に従うと、
世界の内に、様々な度合いにおいて、善なるもの、あるいは、真なるものと呼びうるような存在を見いだすことができるということは、
そうしたいっさいの善なるものや真なるものが現に存在するための原因として、善性や真実性といったあらゆる面において完全性を備えた神と呼びうる存在が現実に実在することが必要であると結論づけられることになります。
つまり、
地上におけるあらゆる存在が、天上にある太陽の光が地上にあるすべての存在を遍く照らし出すことによってはじめて、その明るさを得ることができるように、
世界の内にあるすべての存在は、あらゆる面において完全な存在である神の実在を前提とすることによってはじめて、その存在自体が根拠づけられることになると考えられることになるのです。
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以上のように、
トマス・アクィナスの『神学大全』に出てくる「五つの道」のうちの「第四の道」における神の存在証明の議論においては、
世界の内にある様々な存在同士の間には、より多く善なるものとより少なく善なるものといった存在のあり方に量的な差異があるとされたうえで、
そうしたいっさいの善なるものや真なるものが現に存在するための原因として、善性や真実性といったあらゆる面において完全性を備えた存在である
最も完全な存在としての神の実在性を論証する議論が展開されていると考えられることになるのです。
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次回記事:自然における合目的性と秩序に基づく神の目的論的証明、トマス・アクィナスの「第五の道」における神の存在証明の議論
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