哲学や論理学における類推(アナロジー)の意味とは?あらゆる概念の種類の区分を越えて働く最も自由な論理的推論としての類推
前回書いたように、日常的な比喩表現や文学表現において用いられている類推(アナロジー)と呼ばれる推論のあり方においては、
「鉄のように堅い意志」という比喩表現において、人間の意志の強固さが、鉱物としての鉄の硬さにたとえられ、
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という比喩において、神と人との魂のつながりが、ぶどうの木と枝の密接な結びつきにたとえられるというように、
一般的な比喩表現における類推では、個別的な概念同士の間で成立する類似性に基づいて、具体的なイメージを伴った推論が働いていると考えられることになります。
それに対して、
哲学や論理学といったより思弁的な要素の強い学問分野においては、こうした類推と呼ばれる推論のあり方は、
通常の比喩表現における具体的で個別的な概念同士の関係だけではなく、もっとより広い範囲の概念へと適用されていくことになると考えられることになるのです。
哲学における普遍的な概念と個別的な概念の間で働く類推(アナロジー)
例えば、古代ギリシアの哲学者であるプラトンの哲学思想においては、
「太陽の比喩」、「線分の比喩」そして「洞窟の比喩」という三つの比喩、すなわち、類推(アナロジー)と呼ばれる推論の働きを通じた説明を通して、
プラトンの哲学思想の根本にある最も根源的で普遍的な概念である善なるイデアの存在が明らかにされていくことになりますが、
このうち、最初に位置する「太陽の比喩」においては、
人間の頭上に輝く太陽の光が地上を遍く照らし出すように、すべての存在の根源にある善のイデアがあらゆる存在を根拠づけることによって、人間におけるあらゆる認識が成立するという類推を用いた議論が提示されることになります。
つまり、こうした「太陽の比喩」と呼ばれるプラトン哲学における類推の議論においては、
具体的なイメージをもった個別的な概念である太陽の概念と、極めて抽象的で普遍的な概念である善のイデアの概念という
普遍的な概念と個別的な概念の間で、類推と呼ばれる論理的な推論が働いていると考えられることになるのです。
あらゆる概念の種類の区分を越えて働く自由な論理的推論としての類推
また、同じくプラトンのイデア論に関する哲学的議論が述べられている次の「線分の比喩」においては、
今度は、エイカシア(映像知覚)とピスティス(知覚的確信)、そしてディアノイア(間接的認識)とノエーシス(直知的認識)と呼ばれる人間における四つの普遍的な認識のあり方の区分について、
こうした四者の普遍的な概念の間に成立する比例関係に基づいて、類推の議論が進められていくことになります。
つまり、
こうした古代ギリシアのプラトンの哲学に象徴されるような哲学的な議論においては、
類推(アナロジー)と呼ばれる推論は、通常の日常的な比喩表現や文学表現において用いられている個別的で具体的な概念同士の間だけではなく、
個別的な概念と普遍的な概念の間、さらには、普遍的な概念同士の間も含めたあらゆる種類の概念同士の間で働いていると考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
日常的な比喩表現や文学表現といった通常の比喩表現においては、類推(アナロジー)と呼ばれる推論は、主に、具体的なイメージをもった個別的な概念同士の間のみに限定されて用いられていると考えられるのに対して、
哲学や論理学といった学問分野においては、こうした類推と呼ばれる推論の働きは、個別的な概念同士の間だけではなく、個別的な概念と普遍的な概念の間、さらには、普遍的な概念同士の間においても幅広く用いられていると考えられることになります。
つまり、そういう意味においては、
哲学や論理学における類推(アナロジー)とは、個別と普遍、具体と抽象といったあらゆる概念の種類と階層の区分を乗り越えて働く、
最も自由で創造性に満ちた論理的推論のあり方を示していると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:論理的推論の四つの分類とは?帰納と演繹と類推と仮説形成における具体的な推論のあり方の違い
前回記事:言語学における比喩と論理学における類推との関係とは?日常的な比喩表現や文学表現における類推のあり方
関連記事:演繹法と帰納法の具体的な違いとは?必然的な論理展開と実証的事実に基づく両者における推論の進め方の違い
「論理学」のカテゴリーへ
「言語学」のカテゴリーへ