第二次ペロポネソス戦争の開戦とアテナイのシケリア遠征の失敗:アルキビアデスの地中海帝国の野望と月食による撤退の遅れ

前回書いたように、紀元前431年にはじまったアテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟によるギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争の前半戦にあたる十年戦争は、

アテナイにおける和平派の政治家であったニキアスの主導によって紀元前421年に結ばれたニキアスの和約によっていったんは終結することになります。

しかし、こうしたニキアスの和約が結ばれた後のギリシア世界においても、アテナイとスパルタとの政治的および軍事的な緊張関係は持続していくことになり、

その後、アテナイにおいて主戦派の政治家であったアルキビアデスが新たに都市国家の指導者としての地位につくことになると、両者の関係は、さらなる軍事衝突が避けられない状態にまで悪化していくことになるのです。

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アルキビアデスの地中海帝国の野望とアテナイのシケリア遠征

アテナイのシケリア遠征と第二次ペロポネソス戦争の開戦

アテナイの名門貴族の家柄の生まれであり、アテナイ随一とも言われるたぐいまれなる美貌と美しい肉体の持ち主であると同時に、巧みな弁舌の才によってアテナイの民衆を魅了する美青年であったアルキビアデスは、

30歳の若さにしてアテナイの将軍の地位に選出されることになり、その後、彼を熱狂的に支持する民衆たちの力によってアテナイの指導者としての立場にまで昇りつめていくことになります。

そしてその後、過激な発言によって民衆の支持を集めていくデマゴーゴスとも呼ばれる煽動政治家であったアルキビアデスは、自らの求心力と民衆からの支持をさらに高めていくために、勇ましい演説によってアテナイの民衆を戦争へと煽り立てていくことになるのですが、

当時、ニキアスの和約によって最も近い敵であるスパルタと直接戦うことができない状態にあったアテナイにおいて、アルキビアデスは、ギリシア半島からは遠い西方に位置するイタリアシケリア島へと新たな戦地を求めていくことになります。

当時、イタリア半島の南西に位置する古代ギリシア語ではシケリアと呼ばれていた現在のシチリア島においては、

スパルタと同じドーリア人によって建設されたシュラクサイを中心とする都市国家と、アテナイと同じイオニア人によって建設されたセゲスタを中心とする都市国家との抗争が起きていたのですが、

アルキビアデスは、そうしたシケリアの抗争においてアテナイと友好関係にあったセゲスタの救援を名目としてアテナイの大艦隊を送り込むことによってシケリア島全体をアテナイの支配下へと組み入れていき、

さらには、そうしたシケリア島の支配を手はじめとして、カルタゴからエジプトへと至る広大な領土を支配する地中海帝国を築くという大いなる野望を抱いて、シケリア遠征を強行することを決断するに至ったと考えられることになるのです。

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第二次ペロポネソス戦争の開戦とアルキビアデスのスパルタへの亡命

そして、こうしてアルキビアデスの主導によってアテナイのシケリア遠征が強行されることになると、そうしたアテナイによるシケリアへの大規模な侵攻を互いの同盟国に対する軍事攻撃を禁じていたニキアスの和約を破る違反行為とみなしたスパルタは、アテナイに対抗してシュラクサイの救援へと向けて軍を派遣することになったため、

こうした紀元前415年にはじまったアテナイのシケリア遠征によって、第二次ペロポネソス戦争が開戦の時を迎えることになります。

そして、のちに増援部隊として加わることになる兵力も合わせると、総勢で1万人以上におよぶ重装歩兵と、200隻以上もの三段櫂船と呼ばれる軍艦によって構成される遠征部隊の指揮官には、シケリア遠征の主導者であった主戦派のアルキビアデスに加えて、遠征には反対の立場にあった和平派のニキアスも選ばれることになるのですが、

いざ遠征がはじまってアテナイの大軍勢がシケリア島に上陸してみると、アテナイ本国における政変によって、アルキビアデスに対して神を冒涜する瀆神罪による有罪判決が下されることになり、

アテナイに帰って処刑されることを恐れたアルキビアデスは、裁判において正々堂々と弁明を行うこともなく、アテナイ本国への召還の途上において逃亡を図り、アテナイの宿敵であるスパルタへと亡命してしまうことになるのです。

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月食による遠征軍の撤退の遅れとシケリア遠征でのアテナイの大敗

こうして到着早々に遠征の主導者であった指揮官を失うことになったアテナイの遠征軍は、その後、ニキアスの主導によってシュラクサイを包囲することには成功することになるのですが、

その後、スパルタへと寝返ったアルキビアデスがスパルタの側にアテナイの遠征軍の情報を横流しすることによって、戦況はアテナイの遠征軍の側が徐々に劣勢となっていき、これ以上遠征を続けることは危険であると判断したニキアスは遠征軍のアテナイ本国への撤退を決めることになります。

そして、ちょうどその時、地球上においては、月の姿が太陽と月との間に入った地球の影によって覆い隠されていく月食が起こることになるのですが、

かつて、ペロポネソス戦争がはじまった当初の時代にアテナイの指導者としての立場にあったペリクレスが、日食を見てうろたえるアテナイの兵士たちに、自分のマントを脱いで兵士の目の前で広げて光を遮ることで天体現象の合理的な説明をして不安と混乱を鎮めて見せたのとは対照的に、

シケリア遠征の指揮官であったニキアスは、月食を見てこれを不吉な前兆と考えて、軍の撤退をすぐに実行するのをやめてしまい、アテナイの軍勢はそのまましばらくの間、シケリアの地にとどまり続けることになります。

そして、こうした不合理な理由に基づく撤退の判断の遅れから、戦況はさらにアテナイの側の不利へと大きく傾いていくことになり、

ついに、スパルタとシュラクサイの連合軍によって包囲されることになったアテナイの遠征軍は兵たちの多くが虐殺されたのち、捕虜となった人々もシュラクサイ近郊の石切り場へと送られて、そのほとんどが飢餓と疫病によって死に絶えてしまうことになり、

さらには指揮官であったニキアスも処刑されることになるというアテナイの側の大敗によってシケリア遠征は幕を閉じることになります。

そして、こうしたシケリア遠征の大敗によって、1万人にもおよぶ重装歩兵と、三段櫂船の漕ぎ手となる3万人にもおよぶ水兵を失うことになったアテナイ急速に弱体化していくことになり、

こうしたアテナイのシケリア遠征の失敗を一つの大きな転換点として、ペロポネソス戦争はスパルタ側に優位な戦況へと大きく変化していくことになっていったと考えられることになるのです。

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