ペロポネソス戦争の前半戦にあたる十年戦争のニキアスの和約による終結と死してなお生きるペリクレスの籠城の計略
前々回書いたように、紀元前445年にデロス同盟の盟主であるアテナイと、ペロポネソス同盟の盟主であるスパルタとの間で結ばれた「30年の和約」は長続きすることはなく、
その後、ギリシア北方の植民市にあたるエピダムノスの内乱をきっかけとしてアテナイとコリントの間で軍事衝突が起きると、アテナイを盟主とするデロス同盟と、コリントが属するペロポネソス同盟の双方の陣営において全面的な軍事衝突へと向かう機運が高まっていくことになります。
そして、紀元前432年に開かれたスパルタを盟主とするペロポネソス同盟会議においてアテナイへの開戦の決議が行われることになると、
その翌年にあたる紀元前431年、スパルタの王であったアルキダモス2世は、ペロポネソス同盟軍を率いてアテナイが位置するアッティカ半島への侵攻を開始することによって、
アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間で繰り広げられることになるギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争がついに開戦の時を迎えることになるのです。
アルキダモス2世のアッティカ侵攻とペリクレスによる籠城の計略
アテナイの2倍もの兵力にのぼる重装歩兵の大軍を引き連れてアッティカ半島へと侵攻していくことになったスパルタのアルキダモス2世は、アッティカ半島におけるアテナイの支配地を大軍を率いて荒らし回っていくことになるのですが、
弁舌の才能に優れた政治家であると同時に、合理的な思考によって冷静な判断を下すことができる優れた指揮官でもあった当時のアテナイの指導者であったペリクレスは、すでにこうしたスパルタ軍による陸上での攻勢を予見してその対処についても万全の対策を整えていて、
ペリクレスは、スパルタの重装歩兵の大軍と陸上において真正面から衝突することによって兵力を失う危険は冒さずに、アテナイの城壁の内部に市民を避難させて戦況を長期戦に持ち込んでいくという籠城策をとることにします。
アテナイとその外港にあたるピレウス港の間には、ペルシア戦争におけるサラミスの海戦においてギリシア艦隊を勝利へと導いたアテナイの名将であるテミストクレスによって建設された強固な二重の城壁が築かれていたのですが、
ペリクレスは、そうしたアテナイを守る長大な城壁によってスパルタ軍の侵攻を阻止している間に、港から出立したアテナイの艦隊によってペロポネソス同盟側の都市国家を次々に攻略していくことによって、この戦いをアテナイ側の優位に進めていくという戦略を立てていたと考えられることになるのです。
疫病の流行によるペリクレスの死とクレオンの台頭
しかしその後、籠城戦のさなかにあったアテナイ市内においては、折悪しく、エジプトやリビアなどにおいて感染が広がっていた疫病が流行することになり、
アテナイの指導者であったペリクレスもまたこうしたペストであったとも伝えられている疫病に倒れて命を落としてしまうことになります。
そしてその後、アテナイの政界においては「皮なめし屋」のクレオンを筆頭とするデマゴーゴスとも呼ばれる好戦的な煽動政治家たちが台頭していくことになるのですが、
アテナイの市民が疫病による被害から何とか立ち直ろうとするなか、こうしたクレオンを筆頭とする煽動政治家たちは、ペリクレスの後を継いで、ペロポネソス同盟の配下にある諸都市への攻勢を強めていくことになります。
スファクテリアの戦いにおけるアテナイ艦隊の大勝利
そして、このようにして疫病の流行によって悲運の死を遂げることになった後も、死してなおペリクレスの計略は生き続けていくことになり、
疫病の流行による大きな被害と混乱はあったものの、アテナイ艦隊の海上戦における優位と、都市を守る強固な防壁による陸上戦における膠着状態が継続していくなか、全体の戦況は次第にアテナイの側の優位へと傾いていくことになります。
そしてその後、紀元前425年に起きたピュロスの戦いとそれに続くスファクテリアの戦いにおいて、アテナイの将軍であったデモステネスが率いるアテナイ艦隊がスパルタを含むペロポネソス同盟の軍を破ると、
ペルシア戦争のテルモピュライの戦いにおけるレオニダス王率いる300人のスパルタ兵たちの壮絶な戦死に見られるように、降伏するよりは死を選ぶと謳われた勇猛なスパルタ軍の戦意を喪失させて降伏へと追い込むという大きな戦果を上げることによって、アテナイは自分たちにとって有利な条件で講和条約を結ぶ絶好の機会を手にすることになります。
しかし、アテナイ市民を戦争へと煽り立てていくことを糧として自らの政治的な求心力を得ていたクレオンを筆頭するアテナイの煽動政治家たちは、戦いの引き際を知らずに、終わることのない戦争の継続を求めていくことになるのです。
アンフィポリスの戦いにおけるスパルタの勝利とクレオンの死
そしてその後、こうしたアテナイの好戦的な煽動政治家たちによって進められる長引く戦争による疲弊と、デロス同盟の盟主であるアテナイの強権的な姿勢に対して不満を抱いていたトラキア地方の諸都市がアテナイから離反していくことによって、戦況は徐々にペロポネソス同盟の側の優位へと傾いていくことになります。
そして、こうした情勢の変化に焦りをおぼえたアテナイの指導者であったクレオンは、自ら大軍を率いてトラキア遠征へと赴いていくことになります。
そしてその後、紀元前422年に起きたアンフィポリスの戦いにおいて、かつてペリクレスがあれほど避けることを強く求めていたスパルタの重装歩兵との陸戦における真正面からの衝突を挑むことになったクレオン率いるアテナイ軍は、
この戦いにおいて大敗を喫することになり、大将であったクレオンもまたこの戦いにおいて命を落としてしまうことになります。
そして、こうしたクレオンの最期について、紀元前5世紀後半のアテナイの歴史家であったトゥキディデスが語るところによれば、
スパルタの戦士たちを恐れてなかなか戦場へと向かおうとしないアテナイの将校たちに業を煮やしたクレオンは、アテナイの兵士たちの士気を煽るために、自ら軍を率いてアンフィポリスにまで攻め上ることになるのですが、
いざスパルタの重装歩兵たちの襲撃を受けることになったクレオンは、数において圧倒的に劣るスパルタ兵の猛攻に恐れをなして真っ先に戦場を逃げ出そうとするところを斬り殺されてしまうことになったとも伝えられているのです。
ニキアスの和約によるペロポネソス戦争の前半戦にあたる十年戦争の終結
しかしその一方で、こうしたアテナイにおける好戦的な指導者であったクレオンの死をきっかけとして、両陣営の間では和平へと向けた機運が一気に高まっていくことになり、
紀元前421年に、アテナイにおける和平派の政治家であったニキアスの主導によって、アテナイとスパルタの間でニキアスの和約が結ばれることによって、
紀元前431年はじまったペロポネソス戦争は10年間におよぶ戦いの末にいったんは終結の時を迎えることになります。
しかし、こうしたニキアス和約の講和条件においては、アテナイとスパルタの双方が戦争中に獲得したすべての領土が返還されることが互いに約束されることになったものの、
和約が締結された後になってもスパルタからアテナイへのアンフィポリスの返還が拒否されるなど、占領地の全面的な返還が行われることはなく、
こうしたニキアスの和約によってペロポネソス戦争の前半戦にあたる十年戦争が終結した後も、アテナイを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟との対立と緊張関係はそのまま長く続いていくことになるのです。