アテナイの衆愚政治への堕落と「皮なめし屋」のクレオンを筆頭とする煽動政治家としてのデマゴーゴスの台頭
前回書いたように、アテナイとスパルタの間で結ばれた「30年の和約」は長続きすることはなく、
紀元前431年、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間でギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争がついに開戦の時を迎えることになります。
そして、こうしたペロポネソス戦争が開戦された当初のアテナイにおいては、アテナイの民主政を完成期へと導いた指導者であるペリクレスが政治と軍事を主導していくことになるのですが、
疫病の流行によってそうしたアテナイの黄金時代を築いた指導者であったペリクレスが不慮の死を遂げることになると、
その後のアテナイにおいては、デマゴーグとも呼ばれる煽動政治家によって政治が取り仕切られていく衆愚政治への堕落が進んでいくことになります。
「民衆の先導者」としてのデマゴーゴスの本来の意味
そもそも、現代においては煽動政治家のことを意味する言葉として用いられることが多い英語におけるdemagogue(デマゴーグ)という言葉は、
もともとは、古代ギリシア語において言葉や弁舌によって「民衆を指導する者」のことを意味するδημαγωγός(デマゴーゴス)に由来する言葉として位置づけられることになります。
そして、そういった意味では、
古代ギリシアを代表する自然哲学者であったアナクサゴラスにも学ぶことによって論理的な思考と深い教養とを身につけたうえで、
自らの弁舌の才能を生かして市民を先導することによってアテナイの民主政を完成期へと導いていったペリクレスは、
そうした自らの言説によって民衆を指導して正しい方向へと導いていくという本来の意味におけるデマゴーゴスの役割を果たしていたとも考えられることになるのです。
「皮なめし屋」のクレオンとアテナイの政界での実業家たちの台頭
そして、その後、
ペロポネソス戦争がはじまってからすぐにはじまることになったアテナイでの疫病の流行によってペリクレスが命を落とすことになると、
それまでアテナイの経済を支えてきた商工業を営む実業家たちが政界へと乗り出ていくことになり、
アテナイの民主政の中心となる政治機関である民会の場において熱情的な弁舌を振るうことによって市民たちの支持を集めていくことになります。
そして、
そうした政界へと進出していった実業家たちのなかでも、アテナイ市民の支持を広く集めることによって、ペリクレスの後を継いでアテナイの指導者としての立場へとつくことになった人物としてはクレオンの名が挙げられることになるのですが、
クレオンは、古代ギリシアを代表する喜劇作家であったアリストファネスによって「皮なめし屋」と呼ばれているように皮革業を営む裕福な実業家であったと考えられることになります。
そして、
クレオンを含むアテナイの実業家たちは、戦争によって得られる奴隷を労働力として用いることによって製品を生産し、それを海外に輸出することによって莫大な富を得ていたため、
アテナイの国家としての展望というよりは、むしろ自らが営む商工業における利益の拡大を求めて、新たな領土と資源の獲得と貿易における利権の独占を目指すためにアテナイの人々を戦争へと煽り立てていく傾向を強めていくことになっていったと考えられることになるのです。
ミュティレネの反乱におけるアテナイの朝令暮改の死刑判決
そして、
こうしたクレオンを筆頭とするアテナイにおける煽動政治家としてのデマゴーゴスたちは、自らの利益の拡大を図ると同時に、民衆からの熱烈な支持を維持するために、
過激な言葉や、場合によっては、虚偽の情報まで流してアテナイの市民たちを戦争へと煽り立てていく熱弁を振るっていくことになります。
例えば、
ペロポネソス戦争のさなかにあった紀元前428年に、エーゲ海の北東部に位置するレスボス島の中心都市であったミュティレネにおいてアテナイへの反乱が起きることになるのですが、
この反乱は、スパルタからの援軍が到着する前に、アテナイに友好的な姿勢を見せていたミュティレネの市民たちが、反乱の首謀者であった指導者たちに対して謀反を起こすことによって早期に鎮圧されることになります。
しかし、
こうしたミュティレネの反乱の際に、アテナイの指導者として立場にあったクレオンは、そうした経緯を一切無視して、アテナイに対して再び反旗を翻す都市が現れないようにする見せしめとするために、
ミュティレネの人々は反乱の首謀者だけではなく成人の男はすべて死刑に処したうえで、女と子供はすべて奴隷として売り払ってしまおうと主張することになります。
そして、
こうしたクレオンの語る熱情的な演説によって興奮したアテナイの市民たちは、彼の主張に同意して、ミュティレネの人々に対する過酷な処罰の決議が下されることになり、
その決議の内容を伝えるために、すぐに一隻の軍艦がアテナイからすでに降伏したミュティレネの町へと遣わされることになります。
しかし、その後、
一晩眠ってから翌朝になって起きてきて、少しは冷静になったアテナイの市民たちは、さすがに全員死刑というのはやり過ぎだったと後悔して、すぐに死刑判決を撤回する新たな決議を下すことになり、
今度は、そうした過酷な処罰の撤回を伝えるための船がアテナイからミュティレネの町へと急いで遣わされることになるのですが、
こうしたアテナイからの処罰の撤回の知らせが伝えられたのは、ミュティレネの人々に対して前日のアテナイの決議において下された過酷な処罰の内容が伝えられた後であり、
混乱と叫喚のなか、ミュティレネの人々への死刑が執行される直前になって、やっと処罰の撤回の知らせが届くことになったと伝えられているのです。
アテナイの衆愚政治とペロポネソス戦争
以上のように、
こうしたミュティレネの反乱におけるアテナイ市民による朝令暮改の死刑判決に見られるように、民主政を完成期へと導くことによってアテナイの黄金時代を築いた偉大な指導者であったペリクレスの死後のアテナイにおいては、
刺激的な言葉や詭弁を用いて民衆の意思を自分にとって都合のいい方向へと煽り立てようとする無責任で感情的な煽動政治家にあたる悪い意味におけるデマゴーゴスへと政治家たちが変節していくことになっていったと考えられることになります。
そして、そういった意味では、
こうしたペロポネソス戦争と呼ばれるギリシア世界を二分する大きな戦いが進んでいくさなか、民主政が確立されていたアテナイにおいては、
「皮なめし屋」のクレオンに代表されるような煽動政治家たちによって民主主義のシステムが悪用されていくことによって、
アテナイの民主政における衆愚政治への堕落が進んでいくことになっていったと考えられることになるのです。