ペロポネソス戦争の開戦の原因となった二つの戦いと一つの内乱:エピダムノスの内乱をめぐるアテナイとコリントの軍事衝突
前回書いたように、紀元前460年頃にはじまるデロス同盟とペロポネソス同盟の全面的な軍事衝突へと至る前の前哨戦とも言える一連の軍事的抗争は、
紀元前445年に、両陣営の盟主であるアテナイとスパルタが互いの覇権を認め合う「30年の和約」を結ぶことによっていったんは終結することになります。
しかし、両者の間に結ばれた30年の和約はその誓いが完全に果たされることのないまま、盟約の期間がまだ半分の期間も過ぎていないうちに、早くも大きなほころびを見せていくことになります。
アテナイによる地中海貿易の独占とメガラとコリントへの経済封鎖
スパルタとの間で30年の和約が結ばれた後も、地中海における覇権をさらに拡大していくことになったアテナイを中心とするデロス同盟は、
地中海を中心とする海上貿易の利権を独占していくために、デロス同盟に加盟していない商業都市であるメガラやコリントといった都市国家に対して強い圧力をかけていくことになります。
そして、その後、
様々な形での政治的および経済的な圧力を加えてもデロス同盟に加わろうとしないこれらの都市国家に対して、アテナイはついに本格的な経済封鎖を行うことを決断することになり、
デロス同盟に属している都市と、メガラやコリントといったペロポネソス同盟に属する都市との間で行われる貿易が全面的に禁止されることによって、
アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間には、全面的な経済対立の構図が生じていくことになっていったと考えられることになるのです。
エピダムノスの内乱をめぐるアテナイとコリントの軍事衝突
そして、その後、
紀元前435年に、コルキュラとコリントによって共同植民が行われることによって建設された現在のアルバニアに位置するギリシア北方の植民市であったエピダムノスにおいて内乱が起きると、
そうしたエピダムノスの内乱をきっかけとして、ペロポネソス同盟の主軸となる都市国家の一つであったコリントと、デロス同盟の盟主であるアテナイとの間での軍事衝突へと発展していくことになります。
コリントと協力してエピダムノスの共同植民を行った都市国家であったコルキュラは、もともとはコリントの人々によってギリシア本土の北西に位置する島に建設された植民都市だったのですが、
エピダムノスの内乱を鎮圧するためにコリントが守備兵を派遣することになると、この行為を自分たちのエピダムノスに対する統治権を無視する侵略行為とみなしたコルキュラの人々は、エピダムノスへと侵攻することによってコリント軍との開戦へと至ることになります。
そして、
こうしたエピダムノスの内乱をめぐるコリントとコルキュラの抗争においては、形勢が不利になりつつあったコルキュラからアテナイに対して救援要請が出されることになるのですが、
前述したように海上貿易の利権をめぐってコリントと敵対関係にあったアテナイは、この機会に乗じてコリントの勢力を削いでおくためにコルキュラからの救援要請に応じることになります。
そして、その後、
紀元前433年に行われた、それまでのギリシア人同士の戦いの中では最大規模の海戦であったとも伝えられているシュボタの海戦において、
コルキュラとアテナイの連合艦隊とコリント艦隊との間で、コルキュラ島に近いシュボタ諸島の付近において軍事衝突が起きることによって、
アテナイとコリントは本格的な戦争状態へと入っていくことになるのです。
ポティダイアの離反と包囲戦をめぐるアテナイの勝利
そして、
こうしたシュボタの海戦においては、両軍合わせて300隻近くの軍艦が交戦することになったものの、明確な勝敗はつかないまま戦いが終わることになります。
そして、その後、アテナイは、
コリントとの戦いを有利に進めていくために、コリントの植民都市であると同時にデロス同盟の加盟国でもあったポティダイアに対して都市を守る防壁を一時的に取り壊すことを命じることになるのですが、
こうしたアテナイからの要請を自国の国防に対する重大な内政干渉と捉えて激怒したポティダイアは、アテナイから離反してペロポネソス同盟の側に支援を求めることになります。
そして、その後、
紀元前432年にはじまるポティダイアの戦いにおいて、アテナイの軍勢と、コリントとポティダイアの連合軍との間で会戦が行われることになるのですが、この戦いそのものはアテナイ軍が優勢のまま戦況が進んでいくことになり、
その後、陸上と海上からアテナイの軍勢と艦隊によって包囲されることになったポティダイアは、この戦いから2年ほど経ったのちにアテナイに降伏することになるのです。
ペロポネソス同盟会議におけるアテナイへの開戦の決議
そして、その一方で、
こうしたシュボタの海戦とポティダイアの戦いにおけるアテナイ軍の侵攻を受けて、コリントを中心とするペロポネソス同盟の加盟国は、
同盟の盟主であるスパルタに対して、アテナイとの軍事衝突をめぐるペロポネソス同盟の側の対応を決めるための会議の開催を要請することになります。
そして、こうしたペロポネソス同盟の加盟都市を集めた会議において、
スパルタの王であったアルキダモス2世は、アテナイとの間で結んでいる「30年の和約」を守るための和平の道を探るよう説得を試みることになるのですが、
アテナイを中心とするデロス同盟の諸都市による経済封鎖や度重なる軍事衝突によって不満が高まっていたペロポネソス同盟の諸都市の意向に押し切られる形で、
スパルタを盟主とするペロポネソス同盟会議は、アテナイへの開戦を決議することになります。
そして、こうしたペロポネソス同盟の会議における開戦の決議によって、
紀元前431年、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間で行われていくことになるギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争がついに開戦の時を迎えることになるのです。