第一次ペロポネソス戦争とアテナイとスパルタの「30年の和約」
前回書いたように、ペルシア戦争におけるアケメネス朝ペルシアによるギリシア遠征を退けた後の古代ギリシアにおいては、
アテナイを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟という二つの勢力が互いにギリシア世界の覇権をめぐって争い合う構図が形づくられていくことになります。
そして、こうしたデロス同盟とペロポネソス同盟という二つの勢力の覇権争いは、最終的に、紀元前431年にはじまるギリシア世界を二分する大きな戦いであるペロポネソス戦争へとつながっていくことになるのですが、
そうしたペロポネソス戦争の開戦にさかのぼること30年ほど前にあたる紀元前460年頃からこうしたアテナイとスパルタを中心とする二つの同盟の間では、比較的小規模な軍事的抗争が繰り広げられていくことになります。
スパルタの大地震とアテナイへの援軍要請
第一次ペロポネソス戦争とも呼ばれることがある紀元前460年頃から紀元前445年まで続いていくことになるペロポネソス戦争の前哨戦とも言えるアテナイとスパルタを中心とする二つの勢力の間の軍事的抗争は、
紀元前464年にスパルタを襲うことになった大地震と、その後に続くヘイロタイと呼ばれる奴隷たちの反乱をきっかけとして始まっていくことになります。
それまで、
アテナイとスパルタの両者は、互いにギリシア世界の覇権を競い合うライバル関係にはあったものの、
それと同時に、いつ再び襲ってくるかも分からないペルシア軍の遠征からギリシア世界を守るという意味では一定の軍事的な協力関係にもあったため、
大地震の被害と奴隷の反乱という二重の危機に見舞われることになったスパルタは、そうした一定の協力関係にあったアテナイに対して援軍要請を行うことになります。
そして、
こうしたスパルタからの援軍要請に応える形で、アテナイの指導者のなかでも親スパルタの立場にある将軍であった貴族派のキモンは、
援軍の派遣に対してアテナイの国内でも意見の分かれるなか、4000人もの重装歩兵を率いてスパルタの救援へと赴いていくことになります。
しかし、
いざ、アテナイから到着することになった精鋭の重装歩兵の大軍を目にすることになったスパルタの人々は、
普段は覇権をめぐる争いのなかで自分たちの力を削ぐために邪魔をしてくることが多いアテナイが、すぐにこれほどの大軍を援軍として寄越してくるのは不自然なので、これを口実にアテナイ軍はスパルタへと侵攻を企んでいるのではないかと強い疑いの念を抱くことになり、
将軍キモンが率いるアテナイの援軍は、スパルタの領内にすら入ることができずに、そのまま本国へと送り返されてしまうことになります。
そして、その後、
こうした大地震の後のスパルタにおける奴隷の反乱は、大事に至ることなくスパルタ人自らの手によって鎮圧されることになるのですが、
その一方で、アテナイの人々は、自分たちが差し伸べた救いの手を無礼にも突き返してきたスパルタに対して、強い怒りの念を抱くことになります。
そして、その後、
スパルタへの援軍派遣を強行した親スパルタの立場にあった貴族派のキモンは陶片追放によってアテナイから追放されたうえで、
ペリクレスやエフィアルテスといった反スパルタの立場にあった民主派の政治家たちが新たにアテナイの指導者として都市国家を率いていくことによって、
アテナイを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟という二つの勢力の間には軍事衝突へとつながる決定的な対立が生じていくことになったと考えられることになるのです。
デロス同盟の軍勢によるアイギナとボイオティアの制圧
そして、
紀元前460年に、ついに、アテナイを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟との間で、陸と海の両面において軍事衝突が起きることになります。
こうした第一次ペロポネソス戦争とも呼ばれるデロス同盟とペロポネソス同盟による比較的小規模な一連の軍事衝突においては、
陸上の戦いにおいては、コリントとエピダウロスが率いるペロポネソス同盟の軍勢がアテナイ軍を破ることになるものの、
海上の戦いにおいては、アテナイを中心とするデロス同盟の艦隊がペロポネソス同盟の艦隊を破るというように、一進一退の攻防が続いていくことになります。
そして、その後、
アテナイを中心とするデロス同盟の軍勢は、アテナイと敵対関係にあったアイギナに対して包囲戦を行って制圧することによって、デロス同盟に加盟させることに成功し、
その後も、テーバイを中心とするギリシア中部のボイオティアの地へと侵攻してこの地も自らの支配下におさめることになるなど、
全体としては、アテナイを中心とするデロス同盟の側の優勢な局面が続いていくことになるのです。
エジプト遠征の失敗とペロポネソス同盟の軍勢による反撃
そして、
こうした第一次ペロポネソス戦争とも呼ばれるギリシア世界におけるデロス同盟とペロポネソス同盟の比較的小規模な軍事衝突と時を同じくして、
アテナイを中心とするデロス同盟の軍勢は、紀元前459年に起きたペルシア帝国に対するエジプトの反乱にも介入するために、200隻もの軍艦から成る大規模な遠征軍をエジプトへと派遣していたのですが、
こうしたアテナイを中心とするギリシア軍のエジプトへの遠征は、ペルシアの将軍であったメガビュゾスが率いるペルシア軍からの手強い反撃に合うことに撤退を余儀なくされることになります。
そして、
こうしたエジプト遠征の失敗によって、自らが持つエーゲ海における覇権を大きく揺るがされることになったアテナイを中心とするデロス同盟は、一気に軍の勢いを落としてしまうことになります。
そして、その後、
紀元前447年に起きたコロネイアの戦いにおいて、ボイオティアで起きた反乱を鎮圧するために派遣されたアテナイ軍がペロポネソス同盟軍の反撃に合うことによって大敗を帰することになると、
エウボイアやメガラといったその他のアテナイが支配する地域においても反乱が続発していくことによって、
スパルタを中心とするペロポネソス同盟の側に優勢な局面が次第に多くなっていくことになるのです。
アテナイとスパルタの間で結ばれた「30年の和約」
そして、その後、
アテナイの指導者にして将軍でもあったペリクレスが自らの手によってエウボイアの反乱を鎮圧することによって戦況を収束へと導くことになると、
15年にもおよぶ長い戦乱によって疲弊しつつあったデロス同盟とペロポネソス同盟の両者の間では急速に和平交渉へと向けた機運が高まっていくことになります。
そして、その後、
紀元前445年に、アテナイとスパルタの間で「30年の和約」あるいは「30年の不戦条約」と呼ばれる講和条約が結ばれることになり、
この和約において、
戦争の間にペロポネソス半島においてアテナイを中心とするデロス同盟の側が占領することになったすべての領地がペロポネソス同盟の側に返還される代わりに、
スパルタを中心とするペロポネソス同盟の側も、エーゲ海におけるデロス同盟の覇権を承認するという盟約が結ばれることによって、
こうした第一次ペロポネソス戦争と呼ばれる、その後のギリシア世界を二分する大きな戦いであるペロポネソス戦争の前哨戦とも言える戦争は終結の時を迎えることになるのです。