本間先生における人間の命への果てしなき問いと馮二斉の達観の違い、『ブラック・ジャック』における死生観④
前回書いたように、
『ブラック・ジャック』の作中に出てくる本間先生と刀鍛冶の名工馮二斉の言葉には、
両者とも、神仏や自然そのものによって定められている自然な命の流れに従い、人生の最期には、そうした生きものにおける自然な死のあり方のそのままに受け入れようとする共通する死生観が含まれていると考えられることになります。
そして、こうした本間先生と馮二斉の両者に共通する死生観は老荘思想における無為自然の生き方へと通じる思想でもあると考えられることになるのですが、
その一方で、
両者の死生観の内には、それぞれの職業上の立場や人格の違いからくるような微妙な差異がみられるとも考えられることになります。
本間先生と馮二斉の言葉に含まれる微妙なニュアンスの違い
前回も取り上げた「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」という本間先生の言葉と、
「天地神明に逆らうことなかれ おごるべからず 生き死にはものの常なり 医の道はよそにありと知るべし」というの馮二斉の言葉には、
具体的にどのようなニュアンスの違いがあると言えるのか?ということですが、
それは一言で言うと、
前者の本間先生の言葉は、「おこがましいとはおもわんかね?」という疑問形で終わっているのに対して、
後者の馮二斉の言葉は、「医の道はよそにありと知るべし」という断定の形で終わっているというように両者の語り方の様態が大きく異なっているという点が挙げられると考えられることになります。
つまり、
馮二斉の死生観では、
生きものの生き死には人知を超えた天地神明の力によって定められていて、人間は、自らの知や欲に基づく人為から離れて無為自然の生き方を営むのがよいという命についての真理が一点の曇りも迷いもない形で達観されているのに対して、
本間先生の死生観では、
自然な命のあり方を尊重することに重点が置かれながらも、その言葉は、自信をもって断定するというよりは、相手に問いかける形で結ばれていて、
相手に問いかけながら、自分自身もまた人間の命のあり方についてさらに深く問い続けていくという生命の謎についての飽くなき探究の姿勢が示されていると考えられることになるのです。
医者と職人という職業上の視点の違いからくる死生観の差異
それでは、本間先生と馮二斉の二人の死生観において、人間の命のあり方に対する断定の仕方や、命の問いに対する探究の姿勢にこうした違いがみられるのはなぜか?ということですが、
それについては、おそらく、本間先生が人間の命を救い続けることを自らの使命とする医者であるのに対して、馮二斉は俗世との関り合いをほとんど断ち、ひたすら自らの道のみに生き続ける刀鍛冶の職人であるという両者の職業上の視点の違いにその理由が求められると考えられることになります。
馮二斉のように、刀鍛冶というただ一つの道を極めることのみに自らの命を捧げ、実際にその道で達人の域に達するにまで至った熟練の老職人の立場から見ると、
自分が死に際を見極めるべき命は、職人として生きてきた自らの命ただ一つであり、
自らの手で最後の一本の刃を鍛え上げ、自分の命の輝きを最後まで使い切った時こそが自らの天命であると達観することも十分に可能であると考えられることになります。
しかし、それに対して、
本間先生のように、人間の傷や病を治し、他者の命を救うことを使命としている医者の立場から見ると、その死期や寿命を見極めるべき命は数多く存在することになり、
自分の人生の中で次々に向き合うことになる新たな命の中には、馮二斉のようにすでに自らの人生の中で自分の力を十分に発揮し、何事かをなし遂げてきた老人たちばかりではなく、
まだ、人生のはじめの数歩を歩み始めたばかりの幼い子供の命なども含まれると考えられることになります。
そして、
患者がこうした幼い子供である場合はもちろん、年齢を重ねた患者であっても、どうしてもやり遂げたいことや気がかりとなる思いを残して死期を迎えている患者については、その死を受け入れることは非常に難しいことであると考えられるので、
それがたとえ天命と呼びうるような逃れられない死のあり方であるとしても、医者として最期まで死に対して抗い、
たとえ可能性がほとんどゼロに等しい場合であっても治療や延命措置を続けたいという葛藤が常に生じてしまうことになると考えられるのです。
・・・
以上のように、
俗世から離れた仙人のような立場にある刀鍛冶の達人である馮二斉の死生観においては、
天地神明によって定められた自然の命の流れを受け入れ、自らの知や欲に基づく人為から離れて無為自然の生き方を営むという人間の命のあり方についての達観が一点の曇りも迷いもない形で示されることになるのですが、
それに対して、
社会の中で常に他者の命と向き合い続ける立場にある医者である本間先生の死生観においては、
自然な命のあり方を尊重することに重点が置かれながらも、その死生観は、新たな命との出会いの中で人間の命のあり方についてさらに問い続けていくという生命の謎についての果てしない探究の道へと常に開かれていると考えられることになります。
そして、
こうした自然の命のあり方を尊重しながらも人間の生き死にのあり方に対して常に問い続けていくという本間先生の命のあり方に対する真摯な姿勢は、
その弟子であるブラック・ジャック自身が自らの道である医の道を歩み、一人一人の患者へと向き合う姿勢の内へとしっかり受け継がれていくことになると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:ブラック・ジャックとドクター・キリコ、本間先生における死生観の違いとは?『ブラック・ジャック』における死生観⑤
前回記事:本間先生と馮二斉に共通する無為自然の死生観とは?『ブラック・ジャック』における死生観③
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