ブラック・ジャックとドクター・キリコ、本間先生における死生観の違いとは?『ブラック・ジャック』における死生観⑤
前回までの一連のシリーズでは、手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』の中に出てくるドクター・キリコや本間先生、馮二斉といった様々な登場人物の死生観について、作中に出てくる本人の言葉に基づく形で一つ一つ詳しく考察してきました。
そこで、今回は、上記の三人の登場人物に、この物語の主人公であるブラック・ジャック自身を加えた四人の死生観の違いについて、今までのシリーズで書いてきた内容も含めて改めてまとめ直していく形で考えてみたいと思います。
ブラック・ジャックとドクター・キリコの死生観の違いとは?
まず、この物語における最も対照的な登場人物というとブラック・ジャックとドクター・キリコという二人の医師の名が挙げられることになりますが、
この両者には、人間の命の見つめ方、すなわち、死生観においても、非常に明確で対照的な違いがみられると考えられることになります。
例えば、「二人の黒い医者」の回のエピソードの中では、
ドクター・キリコが「生きものは死ぬ時には自然に死ぬもんだ。それが人間だけがむりに生きさせようとする。どっちが正しいかねブラック・ジャック」と語りかけているのに対して、
同じ回のエピソードの最後でブラック・ジャックは「それでもわたしは人を治すんだ。自分が生きるために!!」という言葉を残していますが、
このような当人自身の言葉にも表れているように、
両者には、自分の目の前にいる患者と対峙する時に、その患者を見てまず死を思うのか、それとも生を思うのかという視点のあり方に大きな違いがみられることになります。
つまり、
ブラック・ジャックの場合は、治療が成功する見込みが非常に低いとしても、そこにほんのわずかでも回復へと向かう可能性があるのならば、そのわずかな可能性に生きる希望を見いだすというように、
いかにして人間を生かすかという生への希望へと常にその目が向けられているのに対して、
ドクター・キリコの場合は、治療の見込みが薄く、生きながらえることでかえって苦痛が増してしまうと考えられる場合には、患者を苦しみから解放するために適切な安楽死を施すことに全力を尽くすというように、
いかにして人間に安らかな死をもたらすことができるのかという死の安息の方へと視点が向けられているという点において、
ブラック・ジャックとドクター・キリコにおける人間の命の見つめ方、すなわち、死生観には、大きな違いがあると考えられることになるのです。
本間先生とドクター・キリコ、馮二斉の死生観の違いとは?
そして、
このような人間の命における死の側面も重視し、安らかで自然な死のあり方を求めるドクター・キリコの死生観は、
人間の命の自然な生き死にのあり方を尊重する本間先生の死生観にも通じるところがあると考えられることになります。
しかし、両者の死生観は決して同じ方向を向いているわけではなく、
ドクター・キリコが患者に安らかな死ををもたらすためには違法な手段を用いることもいとわずに、人為的な方法によって速やかな死をもたらすことを目指すのに対して、
本間先生の場合は、「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」という本間先生自身の言葉にも表れているように、
神仏や自然そのものによって定められた生きものとしての自然な死のあり方をそのままに受け入れるという無為自然の生き方へと通じる死生観が示されているという点において、両者の死生観には大きな差異がみられることになるのです。
そして、
こうした無為自然の生き方へと通じる本間先生の死生観は、ブラック・ジャックが神業の手術の腕をふるうために必要となるメスを鍛え上げていた刀鍛冶の名工である馮二斉が残した「天地神明に逆らうことなかれ おごるべからず 生き死にはものの常なり 医の道はよそにありと知るべし」という言葉にも通じる死生観であると考えられることになります。
しかし、その一方で、
上記の馮二斉の言葉では、天地神明に従い自然な生き死にのあり方を受け入れるといいう人生観が一点の曇りもない断定の形で語られ、そうした人間の命のあり方を達観するような死生観が提示されているのに対して、
本間先生の場合は、人間の命のあり方への問いは、先生がこの言葉を直接語りかけている相手であるブラック・ジャック、そして物語の読み手である読者自身へとそのまま向けられていて、
人間の命のあり方が明確な形では断言されずに、常に新たな生命の謎への探究の道が開かれているという点において、
本間先生と馮二斉という二人の達人の死生観の内においても、人間の命に対する向き合い方の違いのようなものがみられると考えられることになるのです。
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以上のように、
ドクター・キリコと本間先生そして馮二斉という『ブラック・ジャック』の物語の中でも特に異彩を放つ三人の登場人物たちは、
人間の命のあり方について互いにどこか共通するような思想を語りながらも、それぞれが少しずつ異なる視点から、自分なりに筋の通った三者三様の死生観を提示していると考えられることになります。
そして、
『ブラック・ジャック』という物語全体においては、
こうした三人の登場人物の死生観に代表されるような人間の命のあり方に対する多様な思考のせめぎ合いの中で、
人間の生き死に、命のあり方についての葛藤をかかえながら目の前の患者に向かい合い、思い悩みながらもその命を本当の意味で救うために新たな決断を積み重ねていく、医師として、そして、人間としてのブラック・ジャックの生き方が描かれていると考えられることになるのです。
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初回記事:「ときには真珠のように」で本間丈太郎が残した言葉と生命の神秘、『ブラック・ジャック』の本間先生の言葉①
前回記事:本間先生における人間の命への果てしなき問いと馮二斉の達観の違い、『ブラック・ジャック』における死生観④
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