本間先生と馮二斉に共通する無為自然の死生観とは?『ブラック・ジャック』における死生観③
前回書いたように、
『ブラック・ジャック』における主要な登場人物の死生観の中で、ドクター・キリコと本間先生という二人の登場人物の死生観は、
キリコが患者を苦しみから解放するためには本人が望めば自らが直接手を下してでも患者に安らかな死を与えようとする積極的安楽死へとつながる死生観を提示しているのに対して、
本間先生は、生命に対する謙虚な思いから人間の自然な命のあり方を尊重するという尊厳死や消極的安楽死へとつながる死生観を提示していると考えられるように、
両者の死生観は、ある意味で非常に対照的であると考えられることになります。
それに対して、
ブラック・ジャックの恩師である本間先生と、ブラック・ジャックが手術に用いるメスを鍛えていた刀鍛冶の名工である馮二斉の死生観には、互いに通底するところが多い非常に似通った思想があると考えられることになります。
本間先生と馮二斉に共通する無為自然の死生観とは?
「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」という本間先生の言葉と、
「天地神明に逆らうことなかれ おごるべからず 生き死にはものの常なり 医の道はよそにありと知るべし」というの馮二斉の言葉は、
両者とも、命のあり方を人間の知識や願望によって自由に操ることができると思うことは愚かな思い上がりであり、
生きものの命は人間の力の及ばない天地神明や自然そのものの大いなる力によって司られているということを語っていると考えられることになります。
つまり、
両者の言葉は、神仏や自然そのものによって定められている生きものとしての自然な命の流れに逆らわずに、それを素直に受け入れたうえで、
人生の最期には、そうした自然そのものによって定められた天命としての自らの自然な死のあり方を受け入れることこそが人間にとっての善い生き方であるという互いに共通する死生観を提示していると考えられることになるのです。
人間の作為を超えた天道と一体となる無為自然の生き方
中国の春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)の思想家である老子や荘子の思想においては、
人間が自らの知識や欲望に基づく作為を働かせずに、天から与えられたありのままの自然の姿で生きることを意味する無為自然(むいしぜん)と呼ばれる生き方が説かれていくことになります。
無為自然の「無為」とは、文字通り、「何も為(な)すことがない」、すなわち、「何もしない」ということを意味する言葉ですが、
それは、そうした人間が自らの知や欲に基づいて何かを為すという作為を超えたところに存在する天の働き、すなわち、天道のことを意味する言葉としても用いられることになります。
つまり、
人間が自らの知や欲に基づくおごりを捨て去り、自らの作為を超えた天の働きである天道と一体となることによって得られる生き方こそが老子や荘子が説く老荘思想における無為自然の生き方であると考えられることになるのです。
そして、
こうした自らの作為を超えた天道と一体となる無為自然の生き方とは、一言で言うと、神仏や自然そのものによって定められた生きものとしての自然な命の流れをそのままに受け入れて生きる生き方ということとになるので、
それはまさに、上記の本間先生と馮二斉の言葉に表れているような両者の死生観と一致する思想であると捉えられることになるのです。
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以上のように、
前回取り上げたドクター・キリコと本間先生の死生観との間には、比較的大きな思考の隔たりがあるのに対して、
今回取り上げた本間先生と馮二斉の言葉は、両者とも、生きものにおける自然な命のあり方をありのままに受け入れるという互いに極めて近しい関係にある死生観を提示していると考えられることになります。
そして、こうした両者の死生観は、中国の春秋戦国時代の思想家である老子や荘子が説いた老荘思想における無為自然の生き方へも通じるような思想であるとも考えられることになるのです。
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次回記事:本間先生における人間の命への果てしなき問いと馮二斉の達観の違い、『ブラック・ジャック』における死生観④
前回記事:尊厳死を求める本間先生と積極的安楽死まで進むドクター・キリコの死生観の違い、『ブラック・ジャック』における死生観②
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