尊厳死を求める本間先生と積極的安楽死まで進むドクター・キリコの死生観の違い、『ブラック・ジャック』における死生観②
前回書いたように、
ドクター・キリコと本間先生、そして馮二斉という『ブラック・ジャック』に登場する三人の名医と達人たちの死生観の根底には、
神仏や自然そのものによって与えられている生きものとしての自然な命のあり方に逆らわずに、人間としての自然な死のあり方を重視するという思想があると考えられることになります。
そして、こうした人間の命の捉え方に関する共通の思想を前提としながら、そこから三者の死生観のあり方は、それぞれ互いに微妙に異なった方向へと展開されていくと考えられることになるのです。
尊厳死を求める本間先生と積極的安楽死まで進むドクターキリコの違い
「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」という言葉によって、ブラック・ジャックを諫めようとする本間先生と、
「生きものは死ぬ時には自然に死ぬもんだ。それが人間だけがむりに生きさせようとする」と語るドクターキリコの間には、
端的に言ってしまうと、
積極的安楽死と消極的安楽死、あるいは、安楽死と尊厳死の区別へも通じるような死生観の違いがあると考えられることになります。
本間先生の上記のブラック・ジャックに対する言葉には、医者の想像を超えて働く人間の体自身に備わっている回復力や対応力の強さなどの生命の神秘に対する驚異の念と共に、
以前に自分が行った治療において、不治の病で死の床にある患者に対して、治療の見込みがないにもかかわらず手術を繰り返し行うことによって、かえって患者が死ぬまでの苦しみを増してしまうだけに終わってしまったことに対する後悔の念なども込められていると考えられるのですが、
このように、本間先生の死生観の内には、
生きものの命の根底には、人知を超えた生命の神秘の力のようなものが働いていて、
医者である自分がやるべきことは、決して患者の命自体のあり方を自分の手によって自由に操ろうとすることではなく、
一人一人の人間が自分自身に備わった自然な命のあり方をしっかり全うできるように手助けすることに過ぎないという生命に対する謙虚な思いが存在すると考えられることになります。
それに対して、
ドクター・キリコの方は、上記の彼の言葉の前のセリフで「これからもたのまれればいくらでも死なせて歩くぜ」とも語っていることからも分かるように、
彼の死生観の内には、戦争や環境破壊さらには無理な延命治療といった人間の手によって歪められてしまった命に対して本来の自然な死のあり方を取り戻すことに対する強い執念や使命感のようなものが存在し、
苦痛に耐えかねて自らの死を願う人間に対して死の安息をもたらすためには、法を破って自らの手を汚すこともいとわないという人間の生き死にのあり方に対してより積極的に関与していこうとする姿勢が見られることになります。
つまり、
本間先生は、上記のような生命に対する謙虚な思いを前提として、自分が考えつく限りの十分な治療を施したうえでもなお、患者自身に本人の寿命や天命とも言うべきものとしての死期が迫ってきた場合には、
そうした自然な死のあり方に無理に逆らおうとはせずにそれを受け入れることが患者自身が自らの生を意義のあるものとして全うするためには必要であり、
そのためには、患者の意思に反して成功の見込みが極めて薄い治療を推し進めることや、患者の苦痛が増してしまうだけの無理な延命措置は行うべきではないと考える尊厳死や消去的安楽死と呼ばれるような死のあり方へとつながる死生観を持っていると考えられることになり、
それに対して、
ドクター・キリコは、回復の見込みがなく、苦痛の激しい病人を苦しみから解放して安らかな死をもたらすために、単に無理な治療や延命措置をやめる以上のより積極的な措置が必要であると考えていて、
それは、安楽死、その中でも、毒薬の使用といったより積極的な形で自らの手によって直接的に患者の命を奪うことを認める積極的安楽死と呼ばれる死のあり方に極めて近い死生観であると考えられることになるのです。
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以上のように、
本間先生の死生観は、生命に対する謙虚な思いから人間の自然な命のあり方を尊重し、
患者に本人の寿命や天命とも言うべき自然な死のあり方が迫っている時には、患者の意思に逆らって無理な治療や延命措置を行うことはせずに、静かにその死を受け入れるという尊厳死や消去的安楽死へとつながるものであるのに対して、
ドクター・キリコの死生観は、患者を苦しみから解放するためには、本人が望めば、自らが直接手を下してでも患者に安らかな死を与えようとする積極的安楽死へとつながるものであるという点に、
本間先生とドクター・キリコという二人の医者における死生観の違いがあると考えられることになるのです。
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次回記事:本間先生と馮二斉に共通する無為自然の死生観とは?『ブラック・ジャック』における死生観③
前回記事:ドクター・キリコと本間先生と馮二斉の三人に共通する人間の命の捉え方とは?『ブラック・ジャック』における死生観①
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