ソクラテスの産婆術とは何か?教師や医者ではなく助産師が比喩として用いられている理由
ソクラテスの産婆術とは、紀元前5世紀の古代ギリシアのアテナイに生まれた哲学者であるソクラテスによって提唱された問答法のあり方を示す言葉であり、
それは、人々が対話と論駁を通じて自分自身の力によって真理へと到達するのを助けるというソクラテスの知の探究の態度を表す比喩として用いられていると考えられることになります。
それでは、
こうしたソクラテスにおける産婆術とは具体的にどのような知の探究のあり方のことを指す言葉であり、
なぜ、それが産婆術という名で呼ばれることになったのでしょうか?
ソクラテスの父と母の職業と比喩と類比に満ちた議論
ソクラテスの生い立ちについては、父ソプロニスコスは山から石材を切り出してその細工を行う石工であり、母パイナレテは助産師であったと伝わっています。
そして、
ソクラテスにおける知の探究とその哲学思想の展開は、通常、知を持っているとされる相手と対話し、その主張を論駁していくという問答法を用いることによって進められていくのですが、
ソクラテスは、相手の主張を論駁する際に、その議論の説得力を高めるために、例えや類比を用いた表現を多く用いていくことになります。
そうした例えの中には、大工や医者、音楽家、さらには馬の調教師といった多彩な職業に関わる例えも多く出てくることになるのですが、
そのようなこともあってか、ソクラテスが用いる議論の中には、石工や助産師といった自分の父と母の職業を意識しているとも取ることができる比喩もたびたび用いられることになります。
そして、
その中でも、特に、プラトンの対話篇である『テアイテトス』の中では、
ソクラテス自身によって、自分の母親の職業である助産師の仕事との類比から、
人々の知の探究を手助けする問答法のあり方がソクラテスの産婆術(maieutike、マイエウティケー)という表現によって語られることになるのです。
教師や医者ではなく助産師の仕事が比喩として用いられている理由
それでは、
なぜ、ソクラテスは、自分が人々の知の探究を助けるあり方を説明するのに、教師や医者といった人々に知識を教え教育する職業や人々の命を直接助ける職業を比喩として用いるのではなく、
助産師という、出産という特定の場面においてその手助けをする職業のことを比喩として用いているのか?というと、それは、以下のような理由によると考えられることになります。
助産師の仕事は、あくまで子供が生まれやすいように母親となる妊婦の出産を間接的あるいは補助的に手助けすることであって、
実際に出産し、子供を現実の世界へと産み落とすのは、子供を身ごもっている母親自身の仕事であると考えられることになります。
そして、
そうした出産という特定の場面における助産師の仕事と母親自身の仕事との関係のように、
人間として善く生きるために必要な知の探究は、教科書に書かれている知識を丸暗記するような与えられた知識をそのまま受け入れる受動的な学習によって得られるものではなく、
それは、むしろ、母親が自らの力によって自分の子供を産むような探究者自身の能動的で主体的な行為によって生み出されるものであると考えられることになるのです。
そして、
ちょうど、助産師がいなくても、赤ん坊の命は母親の胎内ですくすくとひとりでに育っていくことができるように、
善なる知の源は、人々の心、人々の魂の内にもともと生得的に備わっていて、人間は自分自身の魂に備わっている知性の働きのみによって、自らの善なる知を吟味し、真理へと至る道を歩んでいくだけの十分な力を持っていると考えられるのですが、
その知の吟味をより深く、真理へと至る道をよりスムーズなものとするためには、そうした知の探究のあり方を間接的かつ補助的に助ける対話相手がいた方がより心強いと考えられることになります。
このように、
ソクラテスは、ちょうど、助産師の存在が出産の時の心強い助けとなるように、自分はそうした人々自身の手による知の探究の活動を間接的に補助的にサポートしてまわっているに過ぎないという意味で、
ソクラテスは、自らが行っている人々の知の探究を助ける問答法のあり方を産婆術という言葉で表現していると考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
ソクラテスは、人間として善く生きるためには、すべての人々が自分自身の力によって能動的かつ主体的に知の吟味と探究を進めていくことが必要であり、
そのような自分自身の力によって見出された真理でなければ、その知には人間を善い生へと導くための十分な力が生まれないと考えていたということになります。
そして、
自分はそうした人々自身の手による知の探究の活動を間接的に補助的に手助けしているのに過ぎないのであって、知を生み出す主体は知を探究し、真理へと至る道を歩んでいく探究者としての一人一人の人間自身であるという意味において、
ソクラテスは、そうした人々自身の力による知の探究を手助けする自らの哲学探究のあり方を、自分の母親の職業である助産師の仕事を比喩として用いることによって、産婆術と表現していると考えられることになるのです。
・・・
そして、詳しくは次回書くように、
こうしたソクラテスの産婆術における知の探究の姿勢は、
エレンコス(elenchos、吟味、論駁)やエパクティコイ・ロゴイ(epaktikoi logoi、帰納的議論)と呼ばれるソクラテスの問答法における知の探究の具体的な方法論とも密接に結びついていくことになります。
・・・
次回記事:ソクラテスの問答法とは何か?①エレンコスにおける演繹的推論と帰納的議論
関連記事:善く生きるとは何か?①ソクラテスにおける魂の気遣いと知の愛求への道
関連記事:ソクラテスのダイモーンとは何か?①神と人間の間に位置する存在としての神霊と幻聴としての神の声
「ソクラテス」のカテゴリーへ