メリッソスにおける実在の非物体性⑤すべての唯心論哲学の源流となる思想
前回の議論で考えたように、
神即自然や、万有内在神論といった
スピノザにおける神の概念の源流には、
メリッソスにおける
無限の空間の内に遍在する非物体的存在であり、
精神的実在としての神と同一の存在である
「あるもの」(to eon、ト・エオン、真なる実在)についての
思想があると考えられます。
そして、それは、スピノザだけではなく、
すべての観念論哲学、そして、唯心論哲学の源流となる
思想であると考えられるのです。
プラトンのイデア論の先駆け
現実の世界における物質的存在よりも
意識や観念の世界における精神的存在の方を根源的な存在として重視する
唯心論哲学の源流は、
通常は、プラトン(紀元前4世紀の古代ギリシアの哲学者)の
イデア論(すべての存在の根源には非物体的な真なる実在であるイデア(idea、観念)があり、現実の世界におけるすべての事物は、イデアを原型として、その似像(にすがた)として存在するという思想)
に求められることが多いのですが、
そうした非物体的存在としての真なる実在が
すべての存在の根源にあるという思想は、
これまでのメリッソスにおける実在の非物体性シリーズ
で考えてきたように、
すでに、ソクラテス・プラトン以前の哲学者である
メリッソス(紀元前5世紀後半の古代ギリシアの哲学者)において
見いだされていたと考えられます。
つまり、
メリッソスにおいて、非物体的存在として捉えられた
「あるもの」(ト・エオン、真なる実在)の思想は、
現実の世界における物質的存在の実在に先立って、
意識や観念の世界が存在するという
プラトンのイデア論の思想の
先駆けとなる思想として捉えることができるということです。
パルメニデスの存在の哲学とメリッソスにおける非物体性
すべての唯心論哲学の源流となる思想
世界の始まりであり、すべての存在の大本にある
万物の始原(arche、アルケー、元となるもの、根源的原理)とは何か?
という問いは、
すでに、哲学のはじまりである
タレス(紀元前6世紀の古代ギリシアの哲学者)の段階から
常に問われ続けてきた、哲学における最も根源的な問いの一つですが、
こうした始原(アルケー)についての問いが
パルメニデス(紀元前5世紀前半の古代ギリシアの哲学者)において、
「あるもの」(ト・エオン)、すなわち、真に存在するものは何か?
という存在そのものについての問いとして捉え直されることになります。
そして、さらに、
パルメニデスの存在の哲学における「あるもの」(ト・エオン、真なる実在)が、
その弟子であるメリッソス(紀元前5世紀後半の古代ギリシアの哲学者)において、
数的一性を持ち、無限の空間と永遠なる時間の内に遍在する
非物体的存在として捉え直されたことによって、
現実の世界における物質的存在に先行して、
非物体的存在である精神的存在の世界が存在していて、
現実の世界におけるあらゆる存在の成立根拠となり、
すべての存在を包括している
精神的存在、意識、心の世界こそが真なる実在であるという
唯心論哲学の原型となる思想が完成したと考えられるのです。
つまり、
世界のあらゆる存在を包括し、
すべての存在をその根底において支えている真なる実在とは、
何らかの物体や物質的存在ではなく、
精神的存在、すなわち、
意識、心であるという意味において、
精神的存在の物質的存在に対する優位性と超越性を主張する
唯心論的世界観の端緒は、メリッソスの哲学において開かれ、
そうしたパルメニデスの存在の哲学と
メリッソスにおける非物体性の思想が
すべての唯心論哲学の源流となっているということです。
・・・
以上のように、
哲学の創始者であるタレスにはじまる
万物の始原(アルケー)についての探求は、
パルメニデスの存在の哲学における
真なる実在としての「あるもの」(ト・エオン)の概念によって、
存在そのものについての探求へと高められ、
そうしたパルメニデスにおける「あるもの」(ト・エオン、真なる実在)が、
メリッソスの哲学において、
存在の数的一元論、さらには、精神的実在としての神と同一の存在である
非物体的存在として捉え直されたことによって、
ついに、
唯心論哲学の段階へと到達したと考えられるのです。
・・・
このシリーズの前回記事:メリッソスにおける実在の非物体性と唯心論哲学④スピノザの神即自然とメリッソスの真なる実在
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