「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の本当の意味とは?③高潔なる精神によって得られる平静で幸福なる人生への道
前回の記事で書いたように、古代ローマの詩人であるユウェナリスの『風刺詩集』第10篇の前半部分においては、
富や名声、権力や雄弁の才能、あるいは、長寿や美貌といった、人々が一般的に神に対して祈る際に念頭に置いている様々な望みや願いのあり方が、それが人間を幸福にもすれば不幸にすることもあるという意味においては神に対して祈るに値しない願いのあり方として退けられたうえで、
それでも、人間が神に対して願うことができると考えられる最小限の恩恵のあり方として、
mens sana in corpore sano(メンス・サーナ・イン・コルポレ・サーノ)
すなわち、「健全なる身体の内にある健全なる精神」というラテン語の言葉が語られていくことになります。
そして、
その後に続くこの詩文の最後の部分においては、
上記のラテン語の言葉において語られているmens sana(メンス・サーナ)、すなわち、「健全なる精神」と呼ばれるものが具体的にどのような精神や心理状態のあり方を意味しているのか?ということについてのより詳細な説明がなされていくことになります。
勇気と平静さとを兼ね備えた不屈の魂としての健全なる精神
ユウェナリスの『風刺詩集』第10篇の後半部分においては、
orandum est ut sit mens sana in corpore sano.
健全な身体の内に健全な精神があるように祈られるべきである。
という冒頭でも取り上げたラテン語の言葉の後には、以下のような詩文が続いていくことになります。
・・・
fortem posce animum mortis terrore carentem,
qui spatium vitae extremum inter munera ponat naturae,
qui ferre queat quoscumque labores,
nesciat irasci, cupiat nihil et potiores,
Herculis aerumnas credat saevosque labores
et venere et cenis et pluma Sardanapalli.
死を恐れることのない不屈の魂を求めるのだ。
人生の長さは自然からの贈り物であると心得て、
いかなる労苦をも耐え忍び、
怒りを知らず、渇望することもなく、
ヘラクレスに与えられた過酷なる試練を、
サルダナパルス王が享受した美女と饗宴と羽毛の敷物のよりも価値の高いものとして自ら望む精神を。
・・・
つまり、
上記のユウェナリスの『風刺詩集』第10篇に出てくるラテン語の詩文の言葉においては、前述した神に対して祈られるべき「健全なる精神」のあり方が、
fortis animus(フォルティス・アニムス)、すなわち、「不屈の魂」や「勇敢なる精神」といった意味を表す言葉へと置き換えられたうえで、
それは、死を目の前にしても、自らの人生の長さは神や自然からの贈り物として与えられている自分の力ではどうにもならない天命や運命のようなものであると受け入れて心を動ぜず、
あらゆる労苦をも耐え忍ぶ力をもち、怒りや渇望によっても心を惑わされることない勇気と平静さとを兼ね備えた堅固なる精神であるということが語られていると考えられることになるのです。
ギリシア神話の英雄ヘラクレスと古代アッシリア帝国の伝説上の王サルダナパルス
ちなみに、
上記のラテン語の詩文のなかに出てくるヘラクレスとサルダナパルスという二人の人物は、それぞれ、
前者のヘラクレス(Herakles)は、ギリシア神話に登場する半神半人の英雄であり、
後者のサルダナパルス(Sardanapalus)は、古代アッシリア帝国の伝説上の最後の王として位置づけられる人物であるということになります。
そして、
ヘラクレスが、ギリシア神話の主神ゼウスの妻である女神ヘラからの呪いを受けることによって苦難の道を歩むことを余儀なくされながら、そうした過酷な試練を、
巨大な胴体に九つの首を持つ水蛇の怪物であるヒュドラや、三つの頭を持つ地獄の番犬であるケルベロスを倒すといったヘラクレスの十二の難行に挑むことによって克服していくという文字通りの不屈の魂と勇敢なる精神を備えた英雄であるのに対して、
サルダナパルス王は、自分の周りに男女を問わず数多くの美しい妾たちをはべらせて、贅沢の限りを尽くすことによって王国を滅亡へと導いた肉体的な快楽のみを人生の唯一の目的として追求した古代アッシリアの伝説上の暴君として位置づけられることになるのですが、
そういった意味からも、
こうしたユウェナリスの『風刺詩集』の詩文のなかでは、
人間の幸福の源となる「健全なる精神」と「健全なる身体」という二つの要素のうち、
アッシリアのサルダナパルス王が自らの肉体的な快楽を求めてただそれのみを追求していた健全で美しい肉体としての「健全なる身体」の方ではなく、
ギリシア神話の英雄ヘラクレスの覇業において示されているような不屈の魂あるいは勇敢なる精神としての「健全なる精神」の方により大きな重点が置かれたうえで、
冒頭で挙げた「健全なる身体の内にある健全なる精神」と訳されるラテン語の言葉が語られていると考えられることになるのです。
高潔なる精神によって得られる平静で幸福なる人生への道
そして、
こうした「健全なる身体の内にある健全なる精神」への祈りの言葉が記されたユウェナリスの『風刺詩集』第10篇の詩文は、前述したヘラクレスとサルダナパルス王が出てくる詩文の直後に続く以下のようなラテン語の文によって結ばれることになります。
・・・
monstro quod ipse tibi possis dare; semita certe
tranquillae per virtutem patet unica vitae.
私はあなた方にそれが自らの手によって得られるということを示すのだ。
必ずや、高潔なる精神によって平静なる人生へと通じる唯一の道が開けるということを。
・・・
つまり、
こうしたユウェナリスの『風刺詩集』第10編において語られている詩文全体の文脈的な解釈に基づくと、
日本語においては「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉として語られることが多いラテン語における
mens sana in corpore sano(メンス・サーナ・イン・コルポレ・サーノ)
という言葉においては、
神に対してそれが損なわれることのないように祈るべき恩恵のあり方として提示されている「健全な精神」と「健全な身体」という二つの要素のうち、
より厳密な意味においてには、
肉体的な快楽の追求や苦痛の軽減の源となる「健全な身体」の方よりも、virtus(ウィルトゥス)すなわち、美徳や高潔さをもたらす「健全な精神」の存在の方が、
自らの人生の中で、いかなる困難や苦しみに遭っても心の平静を保ちながら力強く生きていくことができるという人間が幸福な人生を歩むために不可欠な最も重要な性質として位置づけられていると捉えることができると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉に基づく人生観と老荘思想における無為自然へと通じる世界観との関係
前回記事:「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の本当の意味とは?②富・名声・権力・才能・長寿・美貌という恩恵の本当の価値
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