「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の本当の意味とは?②富・名声・権力・才能・長寿・美貌という恩恵の本当の価値

前回の記事で書いたように、日本語においては「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉として語られることが多い古代ローマの詩人であるユウェナリスの『風刺詩集』第10の一節のなかで語られている

mens sana in corpore sano(メンス・サーナ・イン・コルポレ・サーノ)

というラテン語の言葉は、ラテン語の文法や単語自体の意味に基づく解釈としては、より正確には

「健全なる身体の内に健全なる精神があるように祈られるべきである」

といった意味を表す言葉として解釈されることになります。

そして、

上記のユウェナリスの詩文の内に記されているラテン語の言葉がより具体的にはどのようなことを意味しているのか?ということについては?

こうしたラテン語の言葉が語られている前後の文脈において書かれている詩文の内容を読み解いていくことによって、その具体的な意味がより鮮明となっていくことになると考えられることになります。

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富・名声・権力・才能・長寿・美貌という人々が神に対して願う恩恵の本当の価値

まず、

こうしたmens sana in corpore sano(メンス・サーナ・イン・コルポレ・サーノ)、すなわち、「健全な身体の内にある健全な精神」というラテン語の言葉が出てくる前に語られているユウェナリスの詩文の前半部分においては、

名声権力雄弁の才能、さらには、長寿美貌といったといった人々が神に対して望み願うような代表的な恩恵のあり方が順番に取り上げられていったうえで、

そうした人々が神に対して願う一般的な望みや願いの数々は、場合によっては人をかえって不幸にしてしまうこともある神に対して祈るに値しない願いであるということが示されていくことになります。

例えば、

カエサルと覇権を競い合ったことで有名なローマの政治家にして軍人でもあるクラッススポンペイウスは、自らが手にした過度な富と名声と権力によって失脚し、非業の死を遂げてしまうことになりますし、

ローマ随一の雄弁家として知られていたキケロは、その巧みな弁論の力を敵対する政治家たちから疎まれることによって暗殺され彼らにとって耳障りな言葉を放つ頭部と演説で人を指弾する右手とが切り取られて見せしめとして広場に晒されることとなり、

そうしたキケロの暗殺の首謀者であったアントニウス自身もまた、アクティウムの海戦において初代ローマ皇帝となるオクタウィアヌスに敗れて死を遂げることになります。

また、

ユウェナリスは、残りの長寿美貌といった恩恵のあり方についても、それは人間に対して不幸をもたらすことになり得ると語っていて、

例えば、

長寿については、長生きしてもその分だけ容姿は醜く感覚は鈍くなっていくことによって、生きる喜びや楽しみからは遠ざかっていくことになるし、

それでは、容姿が美しければ幸福になれるのか?と言えば、美貌があることによって、不倫や痴情のもつれによる犯罪に巻き込まれてしまうこともあるといったことが語られていくことによって、

そうした長寿美貌といった一般的には強く望まれることになる恩恵についても、それは真の意味においては神に対して祈るに値しない願いとして退けられていくことになるのです。

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人間が神に対して願うべき最小限の恩恵としての健全な身体と健全な精神

そして、以上のように、

古代ローマの詩人であるユウェナリスの『風刺詩集』第10においては、

まずは、

名声権力雄弁の才能長寿美貌といった人々が一般的に神に対して祈る際に念頭に置いている様々な望みや願いのあり方が、それが人間を幸福にもすれば不幸にすることもあるという真の意味においては神に対して祈るに値しない願いとして退けられたうえで、

それでも、もしも、

自らが心の内に抱く何らかの願いを神への祈りの言葉と共に捧げることがあるとするならば、その時には、人間が神に対して望み願うべき最小限の恩恵のあり方として、

健全な身体と健全な精神があるように祈るべきなのだ

ということが語られていると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の本当の意味とは?③高潔なる精神によって得られる平静で幸福なる人生への道

前回記事:「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の本当の意味とは?①ラテン語の文法に基づくmens sana in corpore sanoの解釈

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