「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉に基づく人生観と老荘思想における無為自然へと通じる世界観との関係

このシリーズの初回から前回までの一連の記事では、

日本語においては「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉として語られることが多い古代ローマの詩人であるユウェナリスの詩文の一節に出てくるラテン語の言葉は、

その前後の文脈に基づくラテン語本来の意味としては、「健全なる身体の内に健全なる精神があるように祈られるべきである」といった意味を表す言葉であると考えられ、

さらに、この言葉は、

詩文全体の文脈的な解釈に基づくと、「健全な身体」の方よりも「健全な精神」の存在の方により重点が置かれる表現となっているということを明らかにしてきました。

そして、

こうした古代ローマの詩人ユウェナリスの詩文において人生に平静なる幸福をもたらすと語られている「健全な精神」の具体的なあり方についての記述からは、

古代中国思想の一つである老荘思想における万物斉同や無為自然へと通じる世界観を読み解いていくことができるとも考えられることになります。

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老荘思想や道家思想における万物斉同と無為自然の思想

老荘思想(ろうそうしそう)とは、紀元前6世紀から4世紀頃の中国の思想家であったと考えられる老子(ろうし)荘子(そうし)における道家思想などに代表される古代思想のことを意味する言葉であり、

こうした老荘思想のうちの特に荘子の思想においては、

物事の善悪や美醜といった人間が持つ価値観は、そのすべてが見方や個々の事例の違いによっては正反対のものへと移ろっていってしまうような相対的なものに過ぎず

根源的な意味においては、人生や世の中において継起するあらゆる出来事は、そのすべてが渾然一体となった、みな等しく同価値な存在であると考える

万物斉同(ばんぶつせいどう)一切斉同(いっさいせいどう)と呼ばれる物事の捉え方が示されたうえで、

そうした万物斉同な存在としての世界の内にある自分本来の姿をありのままに受け入れ、社会から押しつけられる人為的な規範や価値観などには束縛されない自由な境地で生きていくという荘子における逍遥遊(しょうようゆう)と呼ばれる生き方は、

老子の思想において、作為や欲望などを働かせずに、宇宙の摂理に従って自然のままに生きていく生き方を意味する無為自然(むいしぜん)へと通じる生き方としても捉えられていくことになります。

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古代ローマの詩人ユウェナリスの詩文において示されている人生観と老荘思想における万物斉同や無為自然に基づく世界観との関係

そして、それに対して、

これまでの一連の記事のなかで取り上げてきた「健全なる身体の内にある健全なる精神」という言葉が語られている古代ローマの詩人ユウェナリスの詩文においては、

例えば、

クラッススポンペイウスといった古代ローマの政治家や軍人たちは、自らが手にした過剰な富や名声や権力のために失脚して非業の死を遂げてしまうことになり、

ローマ随一の雄弁家として名高いキケロは、その口が災いとなることによって、政敵によって暗殺され、頭部と右手首とを切り取られて広場に見せしめとして晒されるという残酷な形で最期を迎えることになったというように、

名声権力雄弁の才能長寿美貌といった人々が神に対して望み願う様々な恩恵のあり方は、それが時と場合によっては、人間のことを幸福にもすれば不幸にすることもあるという相対的な価値を持った恩恵のあり方に過ぎないということが示されていくことになります。

・・・

つまり、

こうした古代ローマの詩人であるユウェナリスの詩文においては、

経済的な豊かさ肉体的な美しさ、あるいは、長生きすることですら、かえって当人に対して災いをおよぼしてしまうことがあるという意味において、

それらの人々が神に対して願う一般的な願いのあり方は、人生における幸福と心の平安を得るためにはあまり積極的に望まれるべきことであるとは言えない願いのあり方として退けられたうえで、

それでも、まだ何らしかの恩恵のあり方を神への祈りの言葉と共に願うことがあるとするならば、

まず第一に、今日そして明日という日を生きていく心が健全であることが重要であり、その次には、そうした心や魂といった存在がその内にある身体が健全であることが望ましいといった意味で、

こうした「健全なる身体の内に健全なる精神があるように祈られるべきである」といった意味を表す言葉が語られていると考えられることになるのですが、

そういった意味では、

こうした古代ローマの詩人ユウェナリスの詩文において語られている人々が神に対して強く願う富・名声・権力・才能・長寿・美貌といった様々な恩恵のあり方を相対的な価値を持つだけに過ぎない神に願うには値しない愚かな願いのあり方として退けたうえで、

そうしたすべてのことを達観したような境地から自分自身が平静なる人生を送るために「健全な精神」「健全な身体」というただ二つのことだけを神に祈るという人生観においては、

前述した古代中国の老荘思想における万物斉同や無為自然にも共通する世界観や人生観が示されているとも捉えることができると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:「パンとサーカス」の由来とは?ラテン語における具体的な意味と古代ローマの市民たちが盲目的な大衆となった歴史的背景

前回記事:「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の本当の意味とは?③高潔なる精神によって得られる平静で幸福なる人生への道

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