アリストテレスの哲学における純粋形相および純粋現実態としての不動の動者
前回と前々回の記事では、現実の世界の内にある一般的な事物の存在における質料と形相の関係と質料と形相の結合体としての現実態(エネルゲイア)のあり方、
そして、人間や動物といった生命体における、質料としての身体と形相としての魂の関係と自らの存在のみにおいて現実態(エネルゲイア)へと至る形相としての魂の存在のあり方について順番に考察してきましたが、
こうした質料と形相そして可能態と現実態といった事物の存在のあり方とその根拠をめぐる哲学的探求の旅は、最終的に、不動の動者と呼ばれる宇宙の存在自体の根拠として位置づけられる究極的な存在へと到達していくことになります。
質料と形相および可能態と現実態との関係における不動の動者の位置づけ
以前に神の存在の宇宙論的証明の議論においても詳しく取り上げたように、
アリストテレスの『自然学』や『形而上学』における存在論の議論においては、
この宇宙の内に存在するあらゆる事物の運動の原因となる因果関係の系列をどんどん前へとさかのぼっていくと、そうした「他のものによって動かされて動くもの」の系列は、
最終的に、自らは他の何ものによっても動かされずにいながら、他のあらゆるものを動かす究極の原因となる不動の動者としての第一動者の存在へと必然的に行き着くことになると考えられることになります。
そして、
こうした宇宙の存在の始原となる原因にして究極の根拠である不動の動者の存在は、質料と形相および可能態と現実態といった事物の存在のあり方の観点においては、
質料ではなく形相として、そして、可能態ではなく現実態として捉えられるべき存在であると考えられることになります。
アリストテレスの哲学における存在論の議論では、
宇宙の内に存在するあらゆる事物は、素材や材料となる質料に対して、特定の事物としての姿かたちや本質である形相が与えられることによって成立していると考えられ、
一般的な事物は、そうした質料と形相との結合によって、事物の可能的な存在のあり方である可能態から、そうした可能性のうちの一つが現実化した状態にある現実態へと移行していくことになると説明されていくことになるのですが、
宇宙自体の存在の究極の根拠である不動の動者においては、
それ自身以外のいかなる存在によっても新たな形相を与えられることもなければ、それ自身以外のいかなるものによっても新たに現実態へと引き上げられることもないと考えられるので、
そうした不動の動者自身は、
他の何ものかによって本質が与えられることによってはじめて特定の事物として存在することになる質料、あるいは、他の何ものかによって現実化されることによってはじめて実在的な事物として世界のうちに存在するようになる可能態といった存在規定のあり方をいかなる意味においても持たない
形相と現実態と呼ばれる存在規定のみによって定義づけられる存在であると考えられることになるのです。
純粋形相および純粋現実態としての「不動の動者」の存在
以上のように、
アリストテレスの『自然学』や『形而上学』における存在論の議論においては、宇宙の存在自体の根拠として位置づけられる究極の存在のあり方は、
自らは他の何ものによっても動かされず、他のあらゆるものを動かす究極の原因となる「不動の動者」として捉えられていくことになるのですが、
それと同時に、
そうしたアリストテレスの哲学における宇宙の存在自体の究極の根拠である「不動の動者」の存在は、
自らは他の何ものかによって形相が与えられる質料とはならずに、他のあらゆるものに形相を与える究極の原因となる究極の形相として位置づけられるべき存在、
そして、
自らは他の何ものかによって現実化される可能態とはならずに、他のあらゆるものを現実態へと引き上げていく究極の原因となる究極の現実態として位置づけられるべき存在、
すなわち、
純粋形相であると同時に純粋現実態としても位置づけられる存在として捉えられていくことになると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:アリストテレス哲学における能動性と受動性の捉え方、形相と質料および現実態と可能態における能動と受動の関係
前回記事:アリストテレスにおける魂と身体の関係とエネルゲイア(現実態)
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