「塞翁が馬」の二つの意味とは?哲学的な意味における解釈と荘子の万物斉同と逍遥遊の思想との関係
前々回の記事で書いたように、「人間万事塞翁が馬」という言葉の由来となった古代中国の塞翁が馬の故事は、
もともとは、紀元前2世紀頃の前漢の武帝の時代に編纂がなされた『淮南子』(えなんじ)と呼ばれる古代中国の思想書に由来する故事であり、
一般的には、人間が住んでいる世の中や人生において禍と福、幸と不幸、良いことと悪いことが転々として予測できないことを指して、
こうした「人間万事塞翁が馬」といった言葉が用いられていると考えられることになるのですが、
その一方で、
こうした『淮南子』の「人間訓」における塞翁が馬の故事は、単に人間の一生や世の中において生じる禍と福、幸と不幸といったものが転々として移ろいやすいものであるといったことを意味しているだけではなく、
そこからは、より深い哲学的な意味を読み解いていくこともできると考えられることになります。
「塞翁が馬」の故事における二つの意味の解釈とは?
詳しくは前々回の「塞翁が馬とは何か?」の記事で書いたように、
『淮南子』の「人間訓」における「塞翁が馬」の故事においては、
昔、中国の北方の塞(とりで、砦)に住んでいた翁(おきな、老人)であった塞翁が飼っていた馬が逃げ出して北方の異民族の地へと去っていってしまうという禍(災い)に見舞われたものの、
その後、逃げた馬が、北方の駿馬(しゅんめ、足の速い優れた馬)を連れて戻って来るという福がもたらされることになり、
今度は、良馬が増えたことで騎馬を好むようになっていた塞翁の息子が馬から落ちて太ももの骨を骨折する重傷を負ってしまうという禍(災い)に見舞われてしまうことになるものの、
さらにその後、北方の異民族が大挙して塞へと攻め寄せてきたことによって大きな戦乱が起こり、この地に住む人々からも多くの犠牲者が出てしまうことになった際に、怪我をしていたことで兵役を免れていた塞翁の息子は無事であり、父親である塞翁と共に命が助かるという福がもたらされることになったという
塞翁がたどることになった数奇な人生のあり方が語られていて、
こうした「塞翁が馬」の故事では、一義的には、
人生のなかでは、災いであるはずのことから福が生まれることもあれば、福であったはずのことが原因となって新たな災いがもたらされることもあるように、
人間の一生や世の中における禍と福、幸と不幸の移ろいやすさが示されていると考えられることになります。
しかし、その一方で、
こうした『淮南子』の「人間訓」における「塞翁が馬」の故事においては、前述したように、
そうした人生における禍と福、幸と不幸といった要素が、禍が福の原因となり、今度はそれとは逆に、福が禍の原因となっていくというように、
時間的に前後していく形で、禍と福とが互いに入れ替わり、常にたゆたい続けていくという人の世の不確かで定めのない流れのあり方が示されていると同時に、
そこでは、
人間の人生において、一般的に禍や福、幸や不幸などと言われているあらゆる出来事は、そもそも、それ自体としては本質的に、自らの内に禍と福、あるいは、善と悪といった二面性をあわせ持つ存在であり、
そうした世界の内において生じるすべての出来事には、本質的な意味においては、禍と福や善と悪といった絶対的な価値の位置づけ自体が存在しないということが示されているとも考えられることになります。
「塞翁が馬」と荘子における万物斉同や逍遥遊の思想との関係
そもそも、
こうした「塞翁が馬」の故事の原典となっている『淮南子』と呼ばれる書物自体が、老子や荘子といった古代中国の思想家に代表される道家思想や老荘思想に基づく説話や人生訓がまとめられた思想書であると考えられることになるのですが、
そうした道家思想を代表する古代中国の思想家である荘子の思想においては、
善悪、真偽、美醜といった人間が有する価値観は、そのすべてが相対的なものに過ぎず、根源的な意味においては、
一人一人の人生や世の中において継起するあらゆる出来事は、そのすべてが渾然一体となった、みな等しく同価値な存在であるとする
万物斉同(ばんぶつせいどう)という物事の捉え方が示されたうえで、
そうした万物斉同な存在の内にある自分本来の姿をありのままに受け入れ、社会から押しつけられる人為的な価値観には束縛されない自由な境地で自らが持つ自然の本性に基づいて生きるという
逍遥遊(しょうようゆう)と呼ばれる生き方が、人間が求めるべき理想の生き方として提示されていくことになります。
そして、
こうした荘子における逍遥遊と呼ばれる生き方は、
人為的な作為を働かせずに、自然のままであることを受け入れる生き方のことを意味する言葉である
老子における無為自然(むいしぜん)と呼ばれる境地にも通じる生き方でもあると考えられることにのですが、
つまり、
こうした『淮南子』の「人間訓」において語られている「塞翁が馬」の故事においては、
単に、禍が福となり福が禍となるという人間の人生における禍と福の時間的な変転のあり方だけが示されているわけではなく、
そうした禍と福といった二分法的な価値観自体が、本質的な意味では、人間の主観的な思い込みに過ぎない相対的で不確かな概念であるということが示されているという
合わせて二通りの意味の解釈のあり方が存在すると考えられ、
そういう意味では、
こうした「塞翁が馬」の故事においては、荘子の万物斉同や逍遥遊、あるいは、老子の無為自然へとつながる思想や人生観のあり方が示されているとも解釈することができると考えられることになるのです。
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