「隗より始めよ」と『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の関係とは?
前回書いたように、
「隗より始めよ」という言葉は、紀元前3世紀の燕の国の政治家であった郭隗(かくかい)が燕王に対して語った政策的助言に由来する言葉であり、
そこでは、自分自身の利益にもなることを自ら率先して行うことによって、周りの人々を自然により良い方向へと導いていくという万人が得をする人材登用と富国強兵の策としてこうした言葉が語られていると考えられることになるのですが、
こうした古代中国の故事における大本の意味における「隗より始めよ」という言葉が示す考え方からは、
現代社会へと通じる近代資本主義の根本にある精神構造を社会学および宗教学的な観点から明らかにした著作である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に見られるような思想のあり方とも共通点を見いだすことができると考えられることになります。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において示されている近代資本主義の精神に基づく理想的な社会のあり方とは?
20世紀初頭のドイツの社会学者および経済学者であったマックス・ヴェーバー(Max Weber)が書いた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』においては、
それまで、生活に必要な分だけ労働して不必要な蓄財は行わない清貧な生き方が美徳とされてきた伝統的な倫理観に対して、
16世紀に展開されたルターやカルヴァンによる宗教改革の運動を通じたキリスト教におけるプロテスタンティズムの進展によって、
自らの職業を神によって召命されることによって使命として与えられた天職として捉え、その職業に対して自らに与えられた能力を最大限に発揮して取り組んで利益を蓄積していく勤勉な生き方が美徳とされる新たな倫理観が形成されていくことになり、
そうした近代ヨーロッパ社会における倫理観の変化を前提とすることによって、
個人における利潤の追求と資本の増大を自己目的とするような経済活動のあり方を肯定する現代社会にまで通じる近代資本主義における基本的な社会構造が形成されていったと説明されることになります。
そして、
そうした資本主義の精神に基づく社会においては、
例えば、
所得税や法人税を上げるといった政策を通じて、過度に富の分配の平等性を図ることによって、能力のある人間がさらなる利潤の追求をしていくのを大きく妨げていくことになると、
かえって、そうした有能な人材や企業の海外流出などを招いてしまうことになり、国力が衰え、結局、国民全体がみな平等に貧しくなっていくという万人が損をする結果を招いてしまうことになるとも考えられるので、
能力のある人間に十分な報酬が支払われることによって、その社会にさらに多くの有能な人材が自然に集まってきて、そうした有能な人々の勤勉な働きによって、その人々が個人的に得た利潤以上のさらに大きな利益が社会全体へと還元されていくというのが、
こうした現代へと通じる近代資本主義の精神に基づく社会における理想的な社会のあり方であると考えられることになるのです。
郭隗が「隗より始めよ」という言葉において示した近代資本主義の理念にも通底する考え方とは?
それに対して、
冒頭でも述べたように、古代中国の故事において、郭隗(かくかい)が燕王に対して語った「隗より始めよ」という言葉がでてくる人材登用と富国強兵の策においては、
まずこの策を思いついた有能な先駆者である郭隗自身が厚遇されることによって利益を得て、それを目にして燕の国へと集まってくる様々な才能を持った他の人々も同様に利益を得ていくことになり、
さらには、そうした多くの有能な人材が集まることによって、燕の国全体がさらに豊かになっていくという形で、それまでにはあまり見られなかった形での人材登用と富国強兵のための政策が進められていくことになります。
つまり、
こうした郭隗が「隗より始めよ」という言葉において示した考え方においては、人材が人材を呼び、利益が利益を生んでいく形で、燕の国全体が豊かになっていくという政策のあり方が示されていると考えられ、
そうした高い能力を持った人々が、その能力と勤勉さに応じて莫大な報酬を得ることを肯定する価値観のあり方は、
前述したマックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において示した近代資本主義の根底にあるプロテスタンティズムの倫理観にも共通するところのある思想として捉えることができると考えられることになるのです。
もちろん、紀元前3世紀の古代中国においては、当然、マックス・ヴェーバーが洞察した近代資本主義の根底にあるプロテスタンティズムの倫理観に見られるような深い宗教的な考察に基づく倫理観の形成などは存在していなかったと考えられることになるのですが、
郭隗は、ある意味においては、、そうしたヴェーバーの言う資本主義の精神にも似たような人間社会の普遍的な構造をすでにある程度洞察することができていて、
そういう意味では、
こうした郭隗が「隗より始めよ」という言葉において示した考え方においては、
神による召命といった宗教的理念を介さない形で、すでに、現代社会へと通じる近代資本主義の理念にも通底する考え方が部分的に示されていて、
そこでは、
個人の欲望に基づく利己的な利益追求と、社会全体の幸福の増大とが両立する一つの理想的な政策のあり方がすでにある程度実践されていたとも考えられることになるのです。
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