「自然学の範囲を超越する対象を探究する学問」としての形而上学(メタピュシカ)の第三の意味、形而上学とは何か?⑧
前回書いたように、「形而上学」(メタピュシカ)という言葉には、「自然学の後に位置する」という著作編纂上の文書の並び順のことを意味する第一の意味だけではなく、
そうした一連の著作に書かれている学問の内容がその学習や探究の順番においても「自然学の後に学ばれるべき学問」であるとする第二の意味も含まれていると考えられることになります。
そして、「形而上学」(メタピュシカ)という概念の解釈のあり方については、こうした著作の編纂上の順序と、学問における学習や探究の順序という二つの意味とは別に、
さらにそこから派生してくることになる第三の意味が存在すると考えられることになるのです。
アリストテレス哲学における「存在」についての二つの探究の方向性
前回の記事で書いたように、古代ギリシア語で「タ・メタ・タ・ピュシカ」(ta meta ta physika)という言葉が付され、
のちに、それが省略されて「メタピュシカ」(metaphysika)という言葉で言い表されることとなったアリストテレスの一連の著作においては、
存在そのものの意味や、あらゆる物事の根本に存在する普遍的概念といった「自然学」や「倫理学」といった一般的な学問の枠組みでは取り扱うことができないテーマについての考察がなされていると考えられることになります。
そして、こうした一連の著作において記されているアリストテレス哲学の思想内容においては、
主に、あらゆる事柄、すべての事物に共通する性質である「存在」という普遍的な概念自体についての概念的な考察が進められていくという方向性と、
そうしたすべての事物の存在の究極の根拠であり、世界全体の究極の始原でもある不動の動者としての神の存在についての探究を進めているという方向性という
二つの方向から、万物における存在のあり方や、その起源についての考察が進められていくことになります。
「自然学の範囲を超越する対象を探究する学問」としての形而上学(メタピュシカ)の第三の意味
そして、こうした「存在」についての二つの探究の方向性のうち、
前者の探究の方向性である「存在」という普遍的な概念自体についての考察においても、それは様々な具体的な事物を包括するより上位のカテゴリーに位置する概念についての考察であるという意味において、
その探究の対象については、「自然学」が探究の対象とする具体的な事物についての概念を超えたより高次の概念が探究の対象となっていると考えられることになるのですが、
こうした学問が取り扱う探究の対象の高次性や超越性といった問題は、上記の探究の二つの方向性の内の後者に位置づけられるすべての存在の究極の根拠と起源についての探究においてより際立ってくると考えられることになります。
後者の探究の方向性においては、すべての存在の究極の根拠にして起源であるとされる不動の動者としての神の存在が直接的な探究の対象となることになりますが、
すべての存在の究極の根拠にして世界創造の始原でもある不動の動者としての神とは、文字通り、この世界の内にあるすべての存在をはるかに凌駕した超越的な存在であり、
そうした超越的な存在としての不動の動者あるいは神についての探究を行う「形而上学」(メタピュシカ)と呼ばれる学問の体系は、
世界の内に存在する具体的な事物についての探究を行う「自然学」が取り扱う探究の範囲をはるかに超越した対象を探究の対象とする学問の体系であると考えられることになるのです。
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以上のように、
古代ギリシア語の「タ・メタ・タ・ピュシカ」(ta meta ta physika)、そして、その省略形である「形而上学」(メタピュシカ)という概念の解釈のあり方については、
そうした言葉によって呼び表わされている学問の体系が、「自然学」が取り扱う探究の対象の範囲を超えた「存在そのもの」といった高次の概念についての探究や、不動の動者としての神といった超越的な存在についての探究を行う学問であるという意味において、
それは、「自然学の範囲を超越する対象を探究する学問」という学問が取り扱う探究の対象の次元の違いと超越性のことを意味する概念として解釈することもできると考えられることになるのです。
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次回記事:「形而上学」(メタピュシカ)という言葉に含まれる三つの意味の違いとは?形而上学と呼ばれる概念の解釈のあり方のまとめ
前回記事:「自然学の後に学ばれるべき学問」という学問的探究の順番としての形而上学(メタピュシカ)の第二の意味、形而上学とは?⑦
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