デカルトにおける直観としての「私はある、私は存在する」という認識、哲学における直観の意味とは?④

前々回前回の記事で書いたように、

古代ギリシア哲学のエピクロス派新プラトン派認識論においては、

通常の学問における論理的思考が、部分から部分へと論証を行う際に誤りが生じてしまう可能性が常にあるため、不完全な認識にとどまるとされるのに対して、

そうした論理的思考に基づく推論に拠らずに、事物のあり方全体を一挙に把握する認識のあり方として直観的認識と呼ばれるより完全で誤りのない認識のあり方が提示されていくことになります。

そして、こうした古代ギリシア哲学における直観の概念は、その後のスコラ哲学などにおける哲学研究を通じてさらに洗練されていくことになるのですが、

こうした古代ギリシアの時代から受け継がれてきた直観という認識のあり方に対して抜本的で大きな意味合いの変化が生じるのは、近世哲学の父とも称されるデカルトの哲学が生まれた時代であると考えられることになります。

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「我思う、ゆえに、我在り」は論理的推論なのか?

17世紀フランスの哲学者であるデカルトは、

自分自身の哲学的自伝であるとともに、真理へと到達するための方法論である方法的懐疑と呼ばれる学問における新たな考え方を記した著作である『方法序説』の中で、

彼の哲学の中で最も有名な言葉である

我思う、ゆえに、我在りcogito ergo sumコギト・エルゴ・スム

という言葉を残しています。

上記の「我思う、ゆえに、我在り」という命題においては、「我思う」(cogito 、コギト)「我在り」(sum、スム)という二つの言葉をつなぐ接続詞として、

前者から後者が導出されることを示す「ゆえに」(ergo、エルゴ)という論理接続詞が用いられているので、

それは、一見すると、通常の学問における論理的推論と同様に、私の思惟と私の存在という別々の要素を論証によって結びつけようとしている命題であるとも捉えられることになります。

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直観としての「私はある、私は存在する」という認識

しかし、それに対して、

デカルトの主著である『省察』では、『方法序説』における「我思う、ゆえに、我在り」という命題と同じ内容の思想を語っていると思われる文脈の中で、この言葉は以下のような形で語り直されていくことになります。

ただ一つ思惟のみが私から引きはがされずに残る。私はある、私は存在する、このことは確実である。しかし、それはいかなる限りにおいてなのか?思うにそれは、私が思惟している限りにおいてである。」(デカルト『省察』「第二省察」)

そして、

この『省察』の本文の後に付された読者の疑問や反論に対するデカルト自身の答弁集の中の「第二答弁」においては、

「私はある、私は存在する」という上記の命題は、通常の学問におけるような論理的推論によって得られるものではなく、

それは、「精神の単純な直観によっておのずから知られるもの」であると述べられることになります。

これは、具体的にはどのようなことを意味しているのか?ということですが、

それは一言でいうと人間の意識が思考活動を行うときに現れる必然的な思考構造のあり方のことを示していると考えられることになります。

例えば、

私が思惟するとき、様々なことについて考えを巡らせ、その考え自体が間違っているのではないかと考えるときですら、

そのように思考しているということ自体の内に、そうした思考する存在としての私自身についての明晰で判明な認識、すなわち、私自身の意識の存在についての直観的認識がすでに現前していると考えられることになります。

このように、

『省察』における「私はある、私は存在する」という命題は、

通常の学問における論理的推論によってではなく、あらゆる思考の内に常に現前し、あらゆる思考が成立するための前提となる最も確実な認識である直観的認識に基づいて成立していると考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

『省察』において示されているデカルトの哲学およびその認識論においては、

私の意識にとって最も確実な認識である「私はある、私は存在する」という認識は、

通常の学問におけるような論理的推論によってもたらされるのではなく、私の意識の内に直接現れる明晰で判明な認識、すなわち、直観的認識として現れているということが明らかにされることになります。

そして、デカルトにおいては、

こうした私の意識にとって最も直接的で確実な認識である自己直観という認識のあり方こそが、論理的思考に拠らずに、事物のあり方全体を一挙に把握するという直観という認識の最も根源的なあり方であり、

そうした自己直観前提とすることによってはじめて、私の意識の内におけるあらゆる思考、さらには、意識によって認識されている世界の内におけるすべての存在そのものが成立することになると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:スピノザの認識論における知的直観とすべての存在を神の内に観る直観知、哲学における直観の意味とは?⑤

前回記事:新プラトン派の一者に対する究極の認識としての直観的認識、哲学における直観の意味とは?③

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