新プラトン派の一者に対する究極の認識としての直観的認識、哲学における直観の意味とは?③

前回書いたように、

中世哲学近代哲学における直観概念の直接的な由来は、プラトンやアリストテレスの少し後の時代の古代ギリシア哲学の学派であるエピクロス派におけるエピボレー(直観的把握)と呼ばれる概念に求められることになります。

そして、

そのさらに大本にあるプラトンにおける認識のあり方と、こうしたエピクロス派における直観概念は、さらにその後の時代の新プラトン派認識論へも引き継がれていくことになります。

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新プラトン派における二世界論と一者からのすべての存在の流出

新プラトン派ないし新プラトン主義neoplatonismネオプラトニズム)とは、西暦205年~270年ごろに生きていたギリシアの哲学者であるプロティノスPlotinos)を創始者とする哲学思想の潮流であり、

新プラトン派においては、プラトンのイデア論の思想に基づいて、現実の世界における具体的な事物の背後には、真なる実在としてのイデア(ideaが存在する観念の世界であるイデア界があるとされ、

そうした真なる実在としてのイデアが存在する知性的世界イデア界と、現実の世界における具体的な事物が存在している感覚的世界現象界という二世界論において世界の構造がとらえられていくことになります。

そして、

こうした新プラトン派の世界観においては、

自分自身の魂も含めたすべての存在は、一者to henト・ヘン)と呼ばれる唯一の究極の根本原理から流れ出るようにして派生的に生じていった存在であるとされることになります。

知性的世界においては、まず、すべての存在の究極の原理である一者から知性が生み出され、その知性からさらにが生み出されることによって、人間やあらゆる生物における精神や心が成立し、

そのようにして生み出された知性と魂の活動と拠り所として、現実の世界における具体的な事物、すなわち、感性的世界におけるあらゆる存在が形づくられていくことになるのです。

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一者に対する究極の認識としての直観的認識

このように、新プラトン派では、自らの魂も含めたすべての存在一者からの流出によって生み出されると説明されるのに対して、

認識においては、自分自身の魂の探求から、自らの始原である知性、そして、さらにその大本にある究極の根本原理である一者へと到達し、

自らの存在の根源にある一者へと帰一することが哲学的探究の究極の目標であるとされることになります。

そして、

こうした新プラトン派の認識論においては、エピクロス派における認識の区分と同様に、知性による認識のあり方は、

部分から部分へと論証を積み重ねて真理へと迫っていく論理的思考と、事物のあり方全体を一挙に把握する直観的把握という二つの認識のあり方に分けて捉えられることになるのですが、

人間の魂自身は、論理的思考しか行えないため、部分から部分へと論証をつなげていく際に、その思考の過程に誤りが生じてしまうという不完全な認識にとどまるのに対して、

直観的把握の方は、全体を一挙に把握するため誤りが生じ得ない完全な認識であるとされ、

そうした完全な認識のあり方である直観的把握は、がその始原である知性へと純化していくことによって得られる純粋な知性の働きによってもたらされると説かれることになります。

つまり、

人間の精神がその究極の原理である一者の認識へと到達するためには、哲学的探究自分自身の魂の内省を経て、その精神を知性へと純化して高めていくことが必要であり、

そうした一者に対する究極の認識は、自己自身を含むすべての存在をその根拠から一挙に捉えるという純粋な知性の働きに基づく直観的認識によってもたらされるとされることになるのです。

・・・

以上のように、

新プラトン派の思想においては、

究極の根本原理である一者から知性が生み出され、その知性からさらにが流出し、知性と魂の働きを原理として感性的世界、すなわち、現実の世界におけるあらゆる存在が形づくられていくという壮大な世界観が展開されていくことになります。

そして、

新プラトン派の認識論においては、そうしたすべての存在の根本原理である一者に対する究極の認識は、

自己自身の魂を含むすべての存在をその根拠から一挙に捉えるという純粋な知性の働きに基づく直観的認識によってもたらされるとされ、

そうした自分自身の魂の内省に基づく知性における直観的認識、すなわち、自分自身についての知的直観という認識のあり方こそが、あらゆる認識の中で最も高度で完全な認識のあり方であることが示されることになるのです。

・・・

そして、

前回取り上げたエピクロス派におけるエピボレー(直観的把握)と呼ばれる認識のあり方や、

今回取り上げた新プラトン派における自分自身の知性、そして一者をめぐる直観的認識のあり方が、中世のスコラ哲学における直観概念のさらなる吟味を経ることによって、

近代哲学におけるデカルト自己直観や、スピノザ知的直観の概念へとつながっていくことになると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:デカルトにおける直観としての「私はある、私は存在する」という認識、哲学における直観の意味とは?④

前回記事:古代ギリシア語からラテン語への直観概念の移行とエピクロス派における直観的認識、哲学における直観の意味とは?②

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