古代ギリシア語からラテン語への直観概念の移行とエピクロス派における直観的認識、哲学における直観の意味とは?②
前回書いたように、
哲学における直観概念の大本の源流には、
プラトンのイデア論におけるノエーシス(直知的認識)や、アリストテレスにおけるテオリア(観想)と呼ばれるような認識のあり方が存在すると考えられることになります。
そして、こうしたイデア、すなわち、すべての存在の根源にある真なる実在としての事物の本質を、知性によって直接把握する認識のあり方は、
その後のエピクロス派や新プラトン派といったプラトン・アリストテレス以降の古代ギリシア哲学の学派において、さらに洗練された概念へと変化していくことになります。
エピクロス派の認識論における論理的思考と直観的認識の区分
エピクロス(Epikuros)は、紀元前314年~270年ごろに生きていた古代ギリシアの哲学者であり、
エピクロスの学説というと、人生の目的として精神的快楽としてのアタラクシアを求める快楽主義の思想が有名ですが、
エピクロス派では、そうした精神的快楽を標榜する倫理学説の他に、自然学や認識論、さらには論理学や弁論術といった様々な方面へと学問研究が進められていくことになります。
そして、
こうしたエピクロス派の認識論においては、
自然学などの通常の学問におけるディエクソディコス・ロゴス(diexodikos logos、論理的思考)と呼ばれる認識のあり方は、部分から部分へと推論を進めていく不完全な認識のあり方であるのに対して、
人間の知性におけるより完全な認識のあり方は、事物のあり方全体を一挙に把握するエピボレー(epibole、直観的把握)と呼ばれる認識のあり方であると説かれることになります。
前回取り上げたプラトン哲学の認識論では、数学や自然学といった通常の学問における論理的な推論を通した認識のあり方がディアノイア(間接的認識)とされるのに対して、
物事の本質であるイデアそのものを直接把握する認識のあり方はノエーシス(直知的認識)と呼ばれ、それが人間の知性における最高段階の認識のあり方とされることになりますが、
エピクロス派におけるディエクソディコス・ロゴス(論理的思考)と呼ばれる認識のあり方は、プラトン哲学におけるディアノイア(間接的認識)に、
エピクロス派におけるエピボレー(直観的把握)は、プラトン哲学におけるノエーシス(直知的認識)と呼ばれる認識のあり方にそれぞれ対応する概念であると考えられることになるのです。
古代ギリシア語のepiboleからラテン語のintuitioへ
こうしたエピクロス派において古代ギリシア語でepibole(エピボレー)と呼ばれていた概念は、
古代ローマ末期の哲学者にして最初のスコラ哲学者でもあったボエティウスの手によって、
ラテン語で「眺める、注視する」といった意味を持つintueor(イントゥエオル)という動詞から派生した名詞であるintuitio(イントゥイティオ)へと移し替えられていくことになります。
そして、それによって、
中世哲学においては、ラテン語のintuitio(イントゥイティオ)が、事物のあり方全体を一挙に把握するという人間の知性における直観的な認識のあり方を意味する言葉として定着していくことになり、
こうしたラテン語におけるintuitio(イントゥイティオ)という言葉がもととなって、
英語ではintuition(イントゥイション)、フランス語ではintuition(アンテュイスィヨン)、ドイツ語ではIntuition(イントゥイツィオーン)、あるいは、Anschauung(アンシャオウング)といった言葉が、「直観」を意味する言葉として用いられるようになっていきます。
そして、このように、
古代ローマの末期から中世の時代にかけて、
古代ギリシア語からラテン語、そして、英語・フランス語・ドイツ語といったヨーロッパ各国の言語へと「直観」を意味する言葉が移し替えられていくことによって、
フランスのデカルト、オランダのスピノザ、ドイツのカントへと通じる近代哲学における直観概念の新たな展開の土台が築かれていったと考えられることになるのです。
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以上のように、
プラトンとアリストテレスの哲学の後の時代に位置するエピクロス派においては、
通常の学問における論理的思考と対置される形で、事物のあり方全体を一挙に把握するエピボレーと呼ばれる直観的把握としての認識のあり方が提示されることになります。
そして、
こうしたエピクロス派における古代ギリシア語のepibole(エピボレー、直観的把握)が、のちに、ラテン語のintuitio(イントゥイティオ、直観)へと移し替えられていくことによって、
スコラ哲学などの中世哲学からデカルトやカントなどの近代哲学へと通じる直観概念の新たな展開の土台が築かれていくことになっていったと考えられることになるのです。
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次回記事:新プラトン派の一者に対する究極の認識としての直観的認識、哲学における直観の意味とは?③
前回記事:哲学における直観の意味とは?①プラトンのイデア論におけるノエーシスからアリストテレスのテオリアへ
関連記事:エピクロスにおける消極的・精神的快楽主義としてのアタラクシア
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