エピクロスにおける消極的・精神的快楽主義としてのアタラクシア

エピクロス派の倫理観は、
快楽主義として捉えられることが多いのですが、

快楽主義と言っても、

それは、肉体的な享楽を際限なく追い求めていく
過度で刹那的な快楽の追求を標榜しているわけでは決してありません。

それでは、

エピクロスにおける快楽主義とは、
具体的にどのような生き方のことを指し示しているのでしょうか?

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苦痛の最小化としての消極的快楽主義

エピクロスが
人間の生に不可欠なものとして重視する快楽とは、

衣食住健康の維持といった
自然的な快楽のことを意味します。

つまり、

酒池肉林の贅沢な饗宴や、豪奢な邸宅、高価な装飾品といった
際限なく豪華で享楽的な生活を快楽として求めているわけではなく、

寒さをしのげる衛生的な住居と、みすぼらしくない程度の衣服、
空腹でひもじい思いをしない程度の十分な食事といった

人間が生きていくうえで最低限求められる
自然的な欲求の充足が、エピクロスにおいては、
快楽という概念として捉えられているということです。

そして、このことは、裏を返せば、

満足な衣服や住居が与えられないことによる寒さ不快感
必要な食事が与えられないことによる空腹
さらには、病気や怪我による直接的な痛み苦しみといった

自然的な欲求が満たされていないことによる
肉体的な苦痛がある状態が、

エピクロスが求める快楽の対極に位置するということであり、

そうした肉体的苦痛がなく、
苦痛から解放されている状態が、

エピクロスが求める快楽の核心にあるということを意味します。

そして、

このような苦痛を避けるという観点からも、

贅沢な饗宴といった過度の快楽は、
不摂生による肉体の不調や病といった苦痛を招くことになると
考えられるので、

エピクロスが求める自然的な快楽からは排除される
ことになるのです。

以上のように、

エピクロスにおいては、

過度な快楽も、
苦痛をもたらす快楽の欠乏状態も避ける

適度な快楽の享受が理想の生き方として求められることになります。

つまり、

エピクロスの快楽主義は、

人間の生物としての自然的な欲求が適度に満たされる
肉体的な苦痛がない状態を目指すという

言わば、

苦痛の最小化を求める
消極的な意味での快楽主義

として捉えることができるということです。

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精神的快楽としてのアタラクシア

そして、さらに、

エピクロスにおける
こうした控えめな快楽主義のあり方は、

肉体面だけでなく、精神面における快楽、
精神的な幸福のあり方にも適用されていくことになります。

例えば、

通常、幸福と言うと、

望む相手との祝福された結婚や、仕事での大きな成功といった
人生における大きな喜びや絶頂期がイメージされることになりますが、

エピクロスにおける精神的な快楽、精神的な幸福の概念には、
こうした大きな喜びや大きな精神的快楽は、あまり合致しないことになります。

なぜならば、

例えば、

肉体的な享楽の過度な追求において、

食べ過ぎによる消化不良や健康状態の悪化、
遊び過ぎによる寝不足や体力の消耗によって、
肉体の不調や病が招かれ、身体を壊してしまうと、

結局、人生のトータルとしては、
苦痛の方が増えてしまうことになるように、

精神的な快楽や幸福においても、
それが自分の実力や能力に照らし合わせて
過度に大きいものである場合、

その反動で、後になって
大きな不幸に見舞われたり、

そこまではいかなくとも、絶頂期との落差
必要以上に大きな精神的苦痛を感じることになってしまう
といったことも考えられるからです。

塞翁が馬(老人が飼っていた馬に逃げられるが、数カ月後、その逃げた馬が別の駿馬を連れて戻ってくる。しかし、今度は、その老人の息子が駿馬に乗っていた時に落馬して足を折ってしまうが、そのおかげで兵役を免れて命が助かるというように、人生の禍福は、幸福が不幸へ不幸が幸福へと絶えず変転していくという中国の故事)ではありませんが、

大きな幸福や幸運の後には、
得てして、同等の大きな不幸や不運に見舞われることがあるので、

できれば、そうした人生のアップダウンの波は、
大波であるよりも、なるべく穏やかなさざ波である方が、

人生のトータルとしての
精神的苦痛や不幸が最小化でき、

人生全体における
精神的快楽、精神的幸福をより長くより適度に享受できる
ということです。

以上のような
消極的・精神的快楽主義に基づいて、

エピクロスの快楽主義における
理想の境地である

アタラクシアataraxia)とは、

肉体的・精神的苦痛から解放され、
自然的な欲求の充足と、穏やかな精神的快楽によって満たされた

何ものにも煩わされない平静不動の心の状態

として捉えられることになります。

そして、

エピクロス派においては、

以上のような消極的・精神的快楽主義の到達点としての
アタラクシアが、

人間の歩むべき理想の生き方、そこに至るべき理想の境地として
求められていくことになるのです。

・・・

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