「人を殺してはならない」という命題は論理的に証明可能なのか?論理的証明が可能な命題と不可能な命題との違いとは?

「人を殺してはならない」「自殺してはならない」「嘘をついてはならない」といった人間の世界における倫理観の根幹に関る根本的な道徳法則については、

そうした根源的な道徳法則自体をさらに論理的に証明することは可能なのか?ということがしばしば問題となります。

演繹的推論としての通常の論理的証明においては、論証の対象となる命題は、その命題よりも単純でより根源的な別の命題へと分解され、

そうしたより自明で根源的な命題を前提としたうえで、その前提となる命題から論理的整合性を持った推論によって元の命題を導くことができるか否かが問題となると考えられることになります。

したがって、

「人を殺してはならない」といった道徳命題が、別の命題からの推論によって論理的に証明することが可能な命題であるか否かは、

そうした道徳法則を示す命題が前提となるより自明で根源的な道徳命題へと分解することが可能な命題であるのか否か?という問題にかかっていると考えられることになるのですが、

それでは、

いったいどのようなタイプの道徳命題がそれ以上その命題自体を論証することが不可能な究極の根源的な道徳命題であると考えられ、

「人を殺してはならない」といった命題は、そうした論証不可能な究極の道徳命題に該当すると考えられることになるのでしょうか?

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論理的証明が可能な命題と不可能な命題との違いとは?

例えば、

老人などからお金をだまし取る振り込め詐欺は悪であるのか?という問いについて、それが論証可能な命題であると考える場合、

「振り込め詐欺は悪である」という道徳命題は、より根源的な道徳法則へと分解することによってさらに論理的に分析することが可能な命題であると考えられることになりますが、

上記の命題を論証するための前提として認められるより根源的な道徳法則としては、例えば「他人を殺したり傷つけたりすることは悪しき行為である」といった命題が挙げられることになります。

すると、詐欺によってお金をだまし取る行為は、相手の身体を直接的に傷つける行為ではないものの、当人が生きていくための支えとなっている財産を奪うという行為は、それを奪われた相手の心を大きく傷つけ、経済的安定を損なう行為であると考えられることになるので、それは「他者を傷つける悪しき行為」に該当する行いであると解釈することが可能であると考えられることになります。

したがって、

「振り込め詐欺は悪である」という道徳命題は、より根源的で自明な道徳法則である「他人を殺したり傷つけたりすることは悪しき行為である」という命題を前提として認める限りにおいて真であると論証することが可能であると考えられることになり、

この道徳命題は、その真偽を十分に論理的に証明することが可能な命題であると考えられることになるのです。

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「不正は悪である」という命題が論証不可能である理由とは?

それに対して、

上記の道徳命題を証明するための前提として使った「他者を傷つけることは悪である」さらには「人を殺すことは悪である」といったより根源的な道徳法則へとさかのぼっていくにつれて、命題自体の論証はより困難になっていくと考えられることになるのですが、

それ以上より根源的で自明な道徳法則へとさかのぼっていくことが不可能な究極の道徳法則の一つとしては、例えば、「不正は悪である」といったタイプの道徳命題が挙げられることになります。

一般的に、善とは道徳的に正しいことを、悪とは道徳的に正しくないことを意味する言葉であり、道徳的に正しくないこととは、すなわち、不正を意味することになります。

したがって、

「悪」「不正」は互いに同じことを意味する概念であり、「不正は悪である」という命題は、「悪は悪である」すなわち、「悪=悪」というトートロジー(同語反復)に等しい命題であると考えられることになるのです。

トートロジーの命題は、「私は私」A=A1=1というように、それ以上論理的に証明することを必要とせずに、それ自体で自明なものとして真であると考えられることになるのですが、

それが論証を必要とせずに自分自身によってのみ真とされるということは、その命題自体を前提となりうるより根源的な別の命題からの推論によって論証することは不可能であるということを意味することにもなります。

つまり、

「不正は悪である」といった道徳法則は、他のあらゆる道徳法則の前提として働く最も自明で真なる命題ではあるものの、それ自体は他のいかなる命題によっても論理的に証明することが不可能な命題であると考えられることになるのです。

・・・

それでは、「人を殺してはならない」という命題が、

「振り込め詐欺は悪である」といった命題と同様に、より自明で根源的な前提となる他の命題に基づいて論証することが可能な命題にあたるのか?

それとも、「不正は悪である」といった命題と同様に、それ自体で自明な命題であるとされ、他のより根源的な命題によってさらに論理的に証明していくことは不可能な命題にあたるのか?ということについてですが、

この命題は、「振り込め詐欺は悪である」という命題ほど派生的で論証がたやすい命題であるとは言えないまでも、「不正は悪である」といった命題ほど究極的な命題でもあるとも言えない両者の中間に位置する命題であり、

「人を殺してはならない」という命題自体に対して、さらに自明で根源的であると考えられる別の命題に基づいて論理的説明を加えることはある程度可能であると考えられることになります。

この命題を証明するための具体的な論拠のあり方については、また次回改めて詳しく考察していくこととしますが、

「人を殺してはならない」という道徳命題は、自分自身の生命の肯定自己と他者の平等性の承認という二つの前提に基づいて論証することが可能な命題であると考えられることになるのです。

・・・

次回記事なぜ人を殺してはいけないのか?という問いへの論理的解答①生命の肯定と自己と他者の平等性という二つの前提に基づく論理的証明

前回記事:個人主義と利己主義の違いとは?個人主義の背景にある二つの原理

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