なぜ人を殺してはいけないのか?という問いへの論理的解答①生命の肯定と自己と他者の平等性という二つの前提に基づく論理的証明

前回書いたように、

「人を殺してはならない」といった根本的な道徳法則について、その命題の論理的証明が可能であるかどうかは、

その命題の前提となる別な命題からその命題自身を導出することが可能であるか?という問題にかかっていると考えられることになります。

つまり、

「人を殺してはならない」という命題が、その背景にあるそれ自身よりも根源的で自明な前提命題から必然的に導出されることを示すことができれば、

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して一つの論理的解答をもたらすことができると考えられるということです。

そして、

「人を殺してはならない」という命題を分析していくと、この道徳命題の背景には、この命題が成立するために必要な根拠となっている二つの前提が存在すると考えられることになるのですが、

それは、すなわち、自分自身の生命の肯定自己と他者の平等性の承認という二つの前提ということになります。

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最も根源的な直観的前提である自分自身の生命肯定の原理

まず、「人を殺してはならない」という道徳命題を論証するための第一の前提となる自分自身の生命の肯定の原理についてですが、

人間は、子供であっても大人であっても痛みなどの苦痛を悪しきことと感じ、それを本能的に避けようとする性質を持っていると考えられることになります。

そして、通常の場合、そうした苦痛が極限まで高められると死に至ると考えられることになるので、人間を含むあらゆる生物は、本能的に死を悪しきことと考え、自らの死を最大限避けようとする傾向をその本性の内に有すると考えられることになります。

また、人間の場合には、生きている限り、親子や兄弟、友人関係や恋人といった様々な人間関係を結んでいく中で自らの人生を歩んでいくことになりますが、

自分が死んでしまえば、そうした自らが築いてきた人間関係のすべてが、少なくとも現世においては完全に断ち切られてしまうことになるので、

そういう意味においても、通常の場合、自らの死は、当人にとって耐え難い疎外感や絶望感といった心理的苦痛をもたらす悪しきものであると考えられることになります。

このように、

死への恐怖生への執着といった感情が人間の本性には生得的に含まれていると考えられるので、

そうした人間における自分自身の死の拒絶と表裏一体の関係にある自分自身の生命の肯定は、人間にとって、殺人を否定する道徳律よりもより根源的な直観的前提であると考えられることになるのです。

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人間社会の成立の前提にある自己と他者の同等性と平等性の原理

それに対して、

「人を殺してはならない」という道徳命題を論証するための根拠となる第二の前提である自己と他者の平等性の承認の方は、第一の前提のように万人に共通する普遍的な直観的事実であるとは言えないまでも、

それは、人間が社会生活を営む存在である以上、あらゆる社会と国家、人間関係の成立のために不可欠必然性の高い前提であると考えられることになります。

第一の前提である自分自身の生命肯定の原理にしたがうと、人間は自らの苦痛や死を悪しきこととして避けるようにできていると考えられることになりますが、

社会生活を営んでいると、自然と様々なところで自分と同じように他の人々も痛みや苦痛を感じている場面に出くわすことになります。

そして、

自分と同じように痛みや苦痛を感じ、そうした苦痛や死を悪しきこととして避けようとする存在である他者についても、

自分と同じようにできるだけ苦痛や死が避けられるべきであるという結論へと至ることになると考えられることになります。

つまり、

自らの死を避け生命を維持しようとする自分自身についての生命肯定の原理が、他者も自分と同じように痛みや死の恐怖を感じる存在であるという同等性の認識、そして、人間社会の成立の前提にある自己と他者の平等性の承認を介して、自分も他者も含めたすべての人間についての生命肯定の原理へとつながり、

それが、生命の肯定と表裏一体の関係にある死への拒絶を意味することによって、すべての人間の死はできる限り避けられなければならず、何人も自らの意志によって積極的に他者の命を奪うことがあってなならない、すなわち、「人を殺してはならない」という道徳命題が必然的に導出されると考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

「人を殺してはならない」という道徳命題は、自分自身の生命の肯定自己と他者の平等性の承認という人間にとってより根源的な二つの前提を認めることによって論理的に証明することが可能な命題であると考えられることになります。

そしてこのことは、逆に言うと、

「人を殺してはならない」という命題が成立するための根拠となっている「自分自身の生命の肯定」と「自己と他者の平等性の承認」という二つの前提の内のいずれか一方が否定される場合には、上記の命題は論理的には成立しないということを意味することにもなるのですが、

こうした「人を殺してはならない」という道徳法則自体の論理的分析の問題は、さらに、人を殺すことが例外的に許容されうるケースであるとも考えられる安楽死や尊厳死の容認や、死刑制度の是非といった問題へもつながっていくと考えられることになるのです。

・・・

次回記事安楽死が道徳的な殺人として容認される論理とは?なぜ人を殺してはいけないのか?という問いへの論理的解答②

前回記事:「人を殺してはならない」という命題を論理的に証明することは可能なのか?論理的証明が可能な命題と不可能な命題との違いとは?

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