ベンサムの功利主義において同性愛が道徳的に容認される理由とは?
詳しくは、以前に、最大多数の最大幸福とは何か?②ベンサムの功利主義における身体的快楽の総和としての最大幸福で書いたように、
ベンサムの功利主義においては、
すべての幸福と快楽は同列に量的に計算することが可能であるとされ、個人個人の快楽の総和が最大化されることによって、社会全体の最大幸福がもたらされると考えられることになります。
そして、
個人主義に基づいたうえで最大多数の最大幸福を求めるこうしたベンサムの功利主義の立場に立つと、
それは、かつては多くの国々において死刑や終身刑などの厳罰の対象となり、現在でも一部の国では犯罪として位置づけられている同性愛について擁護する理論へもつながっていくと考えられることになるのです。
功利主義における善悪の判断基準とは何か?
社会全体の幸福は個人の快楽の総和によってもたらされ、それこそが人間社会における倫理や道徳の根拠ともなっていると考えるベンサムの功利主義の立場に立つと、
社会における道徳の基準についても、ある行為によって人々に幸福と快楽がもたらされるのか?それとも、不幸と苦痛がもたらされるのか?というところに道徳的な善悪の判断基準が置かれると考えられることになります。
そして、
その行為によって個人に幸福と快楽がもたらされる行為は善であり、幸福や快楽よりも、むしろ苦痛と不幸の方が多くもたらされる行為は悪であると規定されることになるのです。
殺人が功利主義において悪しき行為とされる理由
こうした功利主義における善悪の判断基準に基づくと、
例えば、
人間社会において、一般的に最も悪しき行為であるとされている殺人という行為についても、
それが悪しき行為であると規定される理由は、
その行為が殺害される対象となる個人に対して最も大きな苦痛と不幸をもたらす行為であり、それによって殺された人の家族や友人などの周りの人々にも計り知れない大きな苦痛と不幸を与えることになるという快楽と苦痛の量的な比較にあるということになります。
つまり、
殺人という行為については、
その行為によって犯人が得られるであろう歪んだ快楽よりも、被害者が感じる死の恐怖や苦痛、さらには残された人々一人一人が感じる喪失感や悲しみ、絶望感としての心理的苦痛の方が圧倒的に大きいと考えられるので、
それは個人個人の快楽の総和において、快楽よりも苦痛の方を多くもたらす悪しき行為として否定されることになるのです。
同性愛が功利主義において道徳的に容認される論理
そして、このことは、逆に言えば、
他の個人に対して直接的に危害を加え、他人の幸福や快楽のあり方を著しく損なってしまうようなことがない限りは、
その行為を行う個人が、それによって幸福や快楽を得ることができるすべての行為は、個人の幸福と快楽を拡大させる善き行為として容認されると考えられることになります。
つまり、
その行為が他者の幸福追求の権利を直接的に侵害することなしに、個人の幸福と快楽を増大させることができるものであるとするならば、
それが社会において多数派を占める他の多くの人々の感覚では、どんなに不自然で奇異なものに感じられる行為であったとしても、
それは個人の快楽を増大させることによって、社会全体の快楽の総和をも増大させる善き行為として道徳的にも容認されると考えられることになるのです。
そこで、
功利主義の立場に基づく同性愛の擁護論においては、
同性愛という愛のあり方が、上述したような功利主義における善き行為の規定に含まれるのか否か?ということが問題となると考えられることになります。
そうすると、
同性愛は、男女の間の恋愛において生じる異性愛における愛のあり方と同様に、他者との信頼関係や承認を求める人間の根本的な親和欲求に基づく愛のあり方である以上、
それは、個人において、本質的には異性愛と同等の効用をもたらす愛のあり方であると考えられることになります。
そして、それが、
精神的に自立した個人同士の同意に基づく私的な関係という健全な愛のあり方の範囲にとどまるものである限り、
その行為自体が他者に対して直接的な危害をもたらすこともないと考えられることになります。
したがって、
同性愛という愛のあり方自体は、功利主義における善き行為の規定に該当する愛のあり方であり、
功利主義の立場においては、同性愛は、他者の幸福追求の権利を侵害せずに、個人の幸福と快楽を増大させることができる善き行為として、道徳的にも容認されると考えられることになるのです。
・・・
ちなみに、
こうした功利主義の観点に立つと、同性愛だけに限らず、一般的には、
賭博、売春、大麻などの違法薬物の使用といったいわゆる被害者なき犯罪に分類されうるあらゆる行為についても、
それがもし、他人には害を及ぼさずに、総合的に見て、本人にとって苦痛や不幸よりも快楽と幸福を多くもたらす行為であるとするならば、それは当人にとって良い影響をもたらす良き行為として道徳的に肯定されうるとも考えられることになります。
しかし、こうしたことについては、詳しくは、功利主義において麻薬や覚せい剤の使用が否定される論理、快楽計算とは何か?⑫で考えたように、
決して、被害者なき犯罪に分類されるすべての行為が無制限に容認されていってしまうわけではなく、
違法薬物の中でも、特に副作用としての身体的・精神的な害悪が大きい覚せい剤などの違法薬物の使用については、功利主義においても、それを否定する論理を導くことができると考えられることになります。
功利主義の立場において同性愛が道徳的に容認されたのとは対照的に、
覚せい剤などの違法薬物の使用については、それが実際には、快楽よりも苦痛を多くもたらすものであるという観点から、
功利主義においても、その使用行為自体が道徳的に否定されることになると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:ソドミー法の言葉の由来とは?「ユダの手紙」における堕天使の悪徳と不自然な欲望についての記述
前回記事:16~20世紀のイギリスにおけるソドミー法の展開とベンサムの同性愛擁護論
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