16~20世紀のイギリスにおけるソドミー法の展開とベンサムの同性愛擁護論
功利主義の提唱者であるイギリスの法学者ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham、1748年~1832年)は、現代では、
18世紀後半という極めて早い段階から道徳的に同性愛が容認されるべきであるという思想を展開し、同性愛擁護論を唱えた先駆的な人物であったと考えられています。
しかし、実際に、
ベンサムは同性愛の擁護論についての草稿を数多く記し、この問題について生涯にわたって深く考えてきた形跡を残しているにも関わらず、
彼の生前にこうした草稿が著作として公開されることはなく、その死後においても、100年後の20世紀前半に至るまで、彼がこうしたテーマについて草稿を残していたこと自体が公表されることがなかったのですが、
こうしたことには、いったいどのような理由と時代背景があると考えられることになるのでしょうか?
16世紀~20世紀のイギリスにおけるソドミー法の展開
同性愛の禁止規定のことを意味する法律用語であるソドミー法(Sodomy Law)という言葉の由来が、
旧約聖書の「創世記」において、その町に住む人々の堕落が神の怒りに触れたことにより、天から降り注ぐ硫黄の火によって焼き尽くされ、滅んでしまったとされるソドムとゴモラと呼ばれる二つの町のうちの一つであるソドム(Sodom)の町に由来する言葉であるように、
社会や国家において常に少数派であった同性愛の人々のあり方が、彼らが属する集団からある種の罪や堕落とみなされ、強い差別や迫害を受けてきたのは旧約聖書が成立した紀元前の時代にまで遡る古く根深い問題であると考えられることになります。
そして、
功利主義を提唱したベンサムが生まれたイギリスにおいて、はっきりとした法規定において、同性愛が犯罪であるとされ、それが死刑に相当する罪(capital offense、キャピタル・オフェンス※)であると定められたのは、
ヘンリー8世が統治していた時代の1533年のイングランド議会においてということになります。
※capital offenseのcapital(キャピタル)はもともと「主要な、重要な」を意味する形容詞で、法律においては重大な罪、すなわち死に値する罪を意味することになります。また、offense(オフェンス)は、サッカーなどのスポーツゲームでは攻撃のことを意味するが、法律用語としては規範や法律などに対する攻撃や違反、すなわち犯罪のことを意味します。
ヘンリー8世の離婚問題と同性愛の厳罰化
ところで、
ヘンリー8世は、王妃キャサリンとの離婚問題から、キリスト教の戒律に基づいて基本的には離婚を禁止しているカトリック教会と対立し、
1534年の首長令(国王至上法)の発布によって自らをイングランド国教会の長とすると共に、カトリック教会から離脱することによって、イングランド国教会をカトリックから独立させたことで有名な国王であり、
彼は、王妃キャサリンとの離婚成立後も、アン・ブーリン、ジェーン・シーモア、アン・オブ・クレーヴズ、キャサリン・ハワードそしてキャサリン・パーという合計6人もの女性との間で結婚と離婚を繰り返していくことになります。
このように、
教会が禁じている離婚については非常に寛容であったヘンリー8世の時代の、しかもまさに彼の離婚問題によってイギリス国教会がカトリックから独立させられようとしていたのとまったく同時期に、
同じく教会によって禁じられていた同性愛については、これを禁止し、厳しく罰する法令がイングランド議会によって定められることになったのは、
それだけ同性愛の人々が当時の社会や国家から強く敵視される極めて不利な立場に置かれていたことを如実に示していると考えられることになります。
19世紀イギリスにおけるソドミー法の緩和と非犯罪化への道
そして、
その後のイギリスにおけるソドミー法の展開としては、
19世紀前半になると、ベンサムとも親交が深く、イギリスにおける先駆的な奴隷制度廃止論者としても知られる法学者サミュエル・ロミリー(Samuel Romily、1757年~1818年)などによる刑法における刑罰の緩和化などの尽力もあって、
1861年には、同性愛への刑罰は死刑から終身刑へと緩和されることになります。
そして、その後、さらに100年の時を経て、
やっと1967年になってイングランドとウェールズにおいては同性愛は合法とされ、
それに続いて、スコットランドでは1980年に、北アイルランドでは1982年にそれぞれ同性愛の合法化がなされることによって、
イギリスのほぼ全土※において、同性愛の非犯罪化が達成されることになるのです。
※厳密には、イギリス王室の属領であり高度な自治権を持った地域であるガーンジー島やジャージー島、マン島では、同性愛の合法化がなされたのは、それぞれ1983年、1990年、1992年なので、これらのごく一部の島嶼部まで含めると、イギリス全土での同性愛の非犯罪化が完全に達成されたのはマン島において合法化がなされた1992年ということになります。
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以上のように、
同性愛は、古くは紀元前の旧約聖書の時代から罪や堕落、そして差別や迫害の対象となっていて、それがイギリスにおいては、ヘンリー8世統治下の1533年のイングランド議会において明確に死刑に値する罪として規定されることになります。
しかし、ヨーロッパにおいて近代法がより整備されていく流れの中で、同性愛に関する刑罰の規定については、
1861年の終身刑への緩和を経たうえで、1967年のイングランドにおける同性愛の合法化すなわち、同性愛の非犯罪化へと至ることになるのです。
そして、
功利主義の提唱者であるベンサムが生きていたのは、まさに、同性愛が差別や迫害の対象となるどころか、見つかれば死刑に処されていた時代のイギリスということになるので、
ベンサムが自らの功利主義の思想に基づいて同性愛の擁護論を記していても、それを世間に公表することは、自分の学者としての人生を棒に振るどころか、命まで危うくなる問題だったと考えられ、
そうした主張や議論について詳細に記すことはあっても、それを公表することは自分の名誉のためにも命のためにも到底することができない問題であったと考えられることになるのです。
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それでは、
ベンサムが提唱する功利主義の論理に基づいて、どのような形で同性愛が擁護され、その愛のあり方が道徳的にも正しい行為として容認されることになるのか?ということについては、また次回詳しく考えていきたいと思います。
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次回記事:ベンサムの功利主義において同性愛が道徳的に容認される理由とは?
前回記事:アンドロギュノスに関連する人間の三つの種族と同性愛の神話的起源
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