ソクラテスの無知の知とは何か?③詩人の知のあり方の吟味と感性的直感と論理的把握の区別
前回書いたように、
ソクラテスは、無知の知と呼ばれる人間が持つ知のあり方についての吟味を進めていく知の探究の旅の中で、政治家の次に、詩人たちのもとを訪れ、彼らにおける知のあり方を吟味していくことになります。
悲劇詩人と酒神讃歌詩人、政治家と詩人における知のあり方の差異
詩人たちとの対話によって得られた知の吟味は、『ソクラテスの弁明』における記述では、以下のようなものであったと語られています。
私は政治家の次に詩人を、悲劇詩人や酒神讃歌を謳う詩人やその他の詩人たちのもとを訪れた。…
ここでも私は間もなく、詩人たちが詩作するのは知恵によるのではなく、むしろ予言者や巫女のように、一種の自然的素質や神がかりによることを悟った。
確かにこれらの人は多くの善美なることを語りはするが、彼らは自らが語っていることを真の意味では何も理解していないのである。
(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、第7節)
ここでソクラテスが語っている悲劇詩人とは、アテナイのアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスといった古代ギリシアの三大悲劇詩人などに代表される、神話や戦争における悲劇を題材とした叙事詩や抒情詩などの作品を書く作家のことを指していて、
もう一方の酒神讃歌(ディテュランボス、dithyrambos)とは、ギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒、陶酔と狂乱の神であるディオニュソス(Dionysos)を讃えるために謳われていた古代ギリシアの讃歌のことを指す言葉ということになります。
そして、
悲劇詩人にしても、酒神讃歌詩人にしても、自らの作品の中で、神々や英雄たちに関わるような崇高で美しい世界を描いていくことになるので、
ソクラテスは、そうした悲劇詩人や酒神讃歌詩人に代表されるような神々の善美なる世界について語る人々のことを指して「詩人」と呼んでいると考えられることになります。
そして、このような詩人の定義に基づくと、
詩人とは、神々の世界を中心とする善美なるものについて語る能力を持つ人々のことを指しているということになるので、
彼らが優れた詩人である限り、それは同時に、彼らに善美なるものを美しく語る能力があるということを意味することにもなります。
つまり、
前回の議論において、雄弁な政治家における弁論の能力が善美なるものとはまったく無関係な能力であるとして退けられてしまったのとは異なり、
優れた詩人の能力については、少なくとも、それが善美なるものについて語ることができる能力であるという点において、何らかの意味で善美なるものに関わる能力であるとは認められているということです。
そして、このような点において、
政治家と詩人という両者の知のあり方に対するソクラテスの評価には差があると考えられることになるのです。
詩人の知のあり方の吟味と感性的直感と論理的把握の区別
しかし、ソクラテスは、
詩人たちに善美なるものについて語る能力があるからといって、彼らが善美なるものについての知恵を持つ知者であると認めているわけではなく、
上記のソクラテスの言葉にあるように、
詩人は、神が語るがごとき格調高く美しい言葉によって崇高善美なるものについて語りながら、自分が語っている善美なるものについての知は何も持っていないと指摘されることになります。
彼らは、美しいものを感じ取る感性を生まれながらの自然的素質として持っていて、そうした自らの感性によって言葉を紡ぎ出すことで自らの作品を作り上げているので、
その作品は、知性や論理ではなく、むしろ、感性やインスピレーション、ある種の神がかり的な直感によってもたらされているに過ぎないとソクラテスは主張しているということです。
そして、
予言者や霊媒師が霊感などによって未来を予見することができたとしても、何が原因となってその未来が実現することになるのか?また、自らの能力がどのような原理によって機能しているのか?といった点について論理的に説明することはできないように、
詩人も、自分が語っている善美なるものの内容については、語られた言葉以上には説明することもできなければ、それを論理的に把握することもできないという点において、それを知と呼ぶことはできないと考えられることになります。
つまり、
詩人たちは、確かに、善美なるものについて語る能力を持ってはいるのですが、そうした善美なるものについての知を論理的に把握してはいないという点において、
彼らは、善美なるものについて真の意味では何も知っていないということになるのです。
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以上のように、
ソクラテスは、悲劇詩人や酒神讃歌詩人といった詩人たちとの対話を通じて、彼らが以前に対話した政治家たちとは異なり、確かに、何らかの意味で善美なるものに関わる能力は持っていると認めることになるのですが、
彼らの能力は、知性や論理ではなく、生まれながらの感性や神がかり的な直感によってもたらされているものであり、それを知として論理的に把握することができないという点において、詩人たちもまた善美なるものについては無知であるに過ぎないと結論づけることになります。
そして、ソクラテスは、
こうした詩人たちの知のあり方の吟味を終えたうえで、人間が持つ知のあり方についての探究の最後に、職人たちのもとを訪れることになるのです。
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次回記事:ソクラテスの無知の知とは何か?④職人の知の吟味とありのままの自分としての哲学探究への道
前回記事:ソクラテスの無知の知とは何か?②政治家の知のあり方の吟味とデマゴーグへの批判
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