ソクラテスの無知の知とは何か?④職人の知の吟味とありのままの自分としての哲学探究への道
前回書いたように、
ソクラテスは、無知の知、すなわち人間の知のあり方を巡る知の探究の旅の最後に、
はじめに訪れた政治家とも、次に訪れた詩人たちとも異なる知のあり方を持っている職人たちのもとを訪れることになります。
職人における実用的な知のあり方と善美なるものの一部についての洗練された知
ソクラテスが職人たちとの対話から得た知の吟味は、以下のようなものであったと『ソクラテスの弁明』の中では述べられています。
最後に私は手工業を営む職人たちのもとへと赴いた。
それは、私が、私自身はいわば何事をも知らぬことを自覚していたのに、彼らはこれに反して多くの善き事を知っていることを発見するだろうと信じていたからである。
そしてこの点において私は誤らなかった。
彼らは実際私の知らぬことを知っていた。
この意味において確かに彼らは私よりも知者であった。…
しかるに、彼らはみな、それぞれが業とする技芸に熟練していることをもって、他の最も重要な事柄に関しても最高の識者であると信じていた。
そして彼らのこのような謬見(誤った考え)が彼らの備えていた知恵に暗い影を落としていたのである。
そこで私は神託の名において自らに問うた。
彼らのごとき知恵も彼らのごとき愚昧をも持たずに自らあるがままにあるのと、彼らのように二つのものを併せ持つのと、私はいずれを選ぶべきなのかと。
そして私は、私自身と神託とに対して、自分のあるがままである方が私のために善いと答えたのであった。
(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、第8節)
このように、ソクラテスは、
最後に訪れた職人たちの知のあり方も、それは善美なるものについてのすべてを解き明かす真なる知ではないとして最終的には退けてしまうことになるのですが、
前回述べた詩人における詩作のあり方や、前々回述べた政治家における弁論術としての知のあり方が善美なるものについての知にはあらざるものとして退けられていたのに対して、
今回の職人における知のあり方は、少なくともそれが善き事についての知、すなわち、善美なるものの知の一部ではあることが認められている点において、
政治家や詩人の知のあり方に比べ、職人における知のあり方は、ソクラテスによってかなり高く評価されていると考えられることになります。
ちなみに、
ソクラテスの父であるソプロニスコスも山から切り出した石材を加工し、その石を細工することによって様々な道具を作ったり彫刻などをしたりする石工の仕事に従事していた職人でしたが、
幼少時代からそうした父の仕事における知のあり方を見て学んでいたことも、ソクラテスの思想において、職人における実用的な知のあり方が見直され、高く評価されていることの背景にあると考えることもできるかもしれません。
いずれにせよ、ソクラテスが言うように、
石工や彫刻家などに代表されるような職人たちは、
人々の生活を豊かにする道具や、美しい彫像を作り上げることに役立つ実用的な技術と知識を持っているので、
そういった意味では、彼らは、人間の生活と人生に役立つ良い知恵、美しい知恵を持っていると考えられることになります。
そして、
彼らが持つ知のあり方が人々の生活と人生をより豊かにする善く美しい知であるという点において、職人たちの知は、善美なるものについての知の一部についての洗練された知のあり方をしていると捉えられることになるのです。
職人の知のあり方の吟味とありのままの自分としての哲学探究への道
しかし、
そうした職人が持つ洗練された知のあり方ですらなお、善美なるものについての知の全貌と根幹を明らかにするには十分ではなく、
ソクラテスの言葉にもあるように、
彼らは、自らが業とする特定の分野についての専門技術と専門知識に深く精通しているがゆえに、
かえって、そうした善美なるものについての部分的な知識が、善美なるもの全体についての知、すなわち普遍的真理でもあるという思い違いをしやすい状態にあるとも考えられることになります。
つまり、
職人たちの知は、確かに、それが善美なるものについての知の一部を高度に洗練させたものであるという点において、優れた知のあり方であるとは言えるのですが、
そうした部分的な知のあり方を細部まで極めることに専念するあまり、彼らの知の探究の視点は近視眼的になりがちになり、
人間が善く生きるために必要な善美なるものについての知のあり方全体を総合的に捉えることがかえって難しくなってしまう側面もあるということです。
そして、ソクラテスは、
そうした職人たちの知のあり方に倣って、一つの分野に精通し、善美なるものの一部についての洗練された知を得る代わりに、今まで行ってきた善美なるもの全体についての知の探究を放棄するのか?
それとも、今まで通り、デルポイの神託の真意を解き明かすための際限なき知の探究の道を進み続けることを選ぶのか?という問いを自らの心の内に問いかけることになります。
そして、最終的に、ソクラテスは、
善美なるものの一部についての確実な知を得るために、人間が善く生きるために必要な善美なるもの全体についての不確実な知の探究を放棄することはせずに、
それが終わることのない果てしなき知の探究であることを知りながらも、その道を歩み続けることこそがありのままの自分の姿であると結論づけ、
これからも人間の知のあり方を吟味し続ける哲学探究の道を歩み続け、哲学者として生きていくことを改めて決意したうえで、
政治家と詩人と職人の三者をめぐる知の探究の旅をひとまずは終えることになるのです。
・・・
次回記事:政治家と詩人と職人における三つの無知のあり方、ソクラテスの無知の知とは何か?⑤
前回記事:ソクラテスの無知の知とは何か?③詩人の知のあり方の吟味と感性的直感と論理的把握の区別
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