ソクラテスの無知の知とは何か?②政治家の知のあり方の吟味とデマゴーグへの批判

前回書いたように、

ソクラテスは、友人のカイレポンがデルポイの巫女から授かった神託の真意を確かめるために、賢者や知者と呼ばれる人々のもとを訪ねて回って、彼らの知のあり方を吟味していく人間が持つ知のあり方についての探究の道へと進んでいくことになります。

そして、

そうしたギリシア中の知者を訪ねて回る探究の旅なかで、ソクラテスは、

まず、はじめに、

自らが他の人々より優れた知者であり、世の中のすべてのことに通じた識者であると豪語する弁舌の巧みな政治家たちのもとを訪れることになります。

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政治家の知のあり方の吟味と善美なることについての無知の自覚

ソクラテスの弁明』のなかでは、ソクラテスが人間が持つ知のあり方についての吟味を進めていく旅のはじまりは、以下のように描かれています。

アテナイ人諸君、私はこのような吟味をしている際に、一人の政治家のもとで次のような経験をした。

彼との対談中に私は、なるほどこの人は多くの人々には知者に見え、なかんずく彼自身はそう思い込んでいるが、実際にはそうではないと思った。

そこで、私は、彼は自ら知者だと信じているけれどもその実そうではないということを彼に説明しようと努めたのである。…

私はそこを立ち去りながら一人こう考えた。

私の方があの男よりは知恵がある。なぜかといえば、私も彼も善美なるものについては何も知っていないと思われるが、彼は何も知らないのに何かを知っていると思い込んでいるのに対して、私は何も知りもしないがそれを知っているとも思っていないからである。

それゆえ、自分が知らないことを知っているとは思っていないという限りにおいて、私はあの男よりも少しばかり知恵があると思われるのである。

…このようにして私は、この人からも他の多くの人たちからも憎悪されるに至ったのである。

(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、第6節)

つまり、

確かに、説得力のある演説によって人々を納得させ、政敵との討論に打ち勝つ言論の力を持った政治家は、すべての物事に精通した幅広い見識によって国を導いてくれる頼もしいリーダーとして多くの人々から慕われ、尊敬を集めることになるのですが、

そうした演説政敵との討論において用いられる知のあり方は、単なる政治的なディーベート討論)に打ち勝つための弁論術に過ぎず、

それは、人間が真の意味で善く生きるために必要な善美なる知とは無関係な知のあり方であるとソクラテスは主張しているということです。

そして、

上記のソクラテスの言葉にあるように、

対話相手である政治家は、善美なるものについて真の意味では知っていないのにも関わらず、それについて知っているかのように装い、さらには、自分自身でもそうしたことについてよく知っていると思い込んでしまっているのに対して、

ソクラテスは、自分がいまだ善美なるものについての知を真の意味では得ていないということをはっきりと自覚しているという点において、

対話相手である政治家哲学者ソクラテスとの間には知のあり方に隔たりがあると考えられることになります。

ソクラテスの無知の知における知の具体的な内容とはどのようなものであるのか?という問題については、このシリーズの後半で改めて深く考察していきますが、

ひとまずは、ここに書いてあるように、

善美なることについての無知を自らの知の探究によって自覚することが、ソクラテスの無知の知の直接的な意味ということになるのです。

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デマゴーグとしての政治家への批判と哲人王の理想

このように、

『ソクラテスの弁明』では、政治家は、人間にとって最も重要な知である善美なることについてはまったく何も知っていないのに、それについて知っているかのように装い、自分が他の人々よりも知において上であるという思い違いをしている愚かな人々として、その知のあり方が手厳しく批判されていくことになるのですが、

こうしたソクラテスにおける政治家批判のあり方は、おそらくは、当時のアテナイの町に跋扈していて、最終的には国を滅亡へと導くことになるデマゴーグと呼ばれる人々を念頭に置いた批判であると考えられることになります。

デマゴーグ(英:demagogue、古代ギリシア語ではデマゴーゴス(demagogos))とは、

民主主義社会において、自らは確固たる見識や信念を持っていないにもかかわらず、
大衆の顔色をうかがっては、彼らの支持を得るためにその時々でカメレオンのように自らの意見を変え、

大衆の感情や願望を利用して、時には虚偽の情報も交えることもいとわずに、彼らの感情をあおって自らの政治的権力を増していくことをもくろむ扇動政治家たちのことを指す概念ですが、

ソクラテスは、こうしたデマゴーグ扇動政治家)のように、自分が知っていないことを知っているかのように装い、何もないにもかかわらず何かがあるように取り繕う知のあり方を単なる無知よりもさらに劣る不正なる悪しき知のあり方として強く批判していると考えられるのです。

そして、

こうした政治家における知のあり方を敵視または軽視しているようにも見えるソクラテスの態度は、のちに、ソクラテスの弟子であるプラトンの政治観にも色濃く受け継がれていくことになり、

政治家という職業自体を否定し、ソクラテスのような哲学者自らが指導者として国家を導くというプラトンにおける哲人王の理想へとつながっていくことになるのです。

・・・

以上のように、

ソクラテスは、人間が持つ知のあり方を探究する旅のはじめに、多くの人々から知者として尊敬されている政治家たちのもとを訪れ、

彼らが善美なるものについて真の意味では何も知っていないのに、それを知っていると思い込んでいるのに対して、

自分は善美なるものについての無知を自らの知の探究によって自覚しているという点において、自分の方が彼らよりも知恵があると結論づけることになります。

そして、ソクラテスは、

こうした政治家たちの知のあり方の吟味を経たうえで、

賢者や知者と呼ばれる人々のもとを訪ねる旅を続け、彼らの持っている知のあり方を吟味する人間が持つ知のあり方についての探究をさらに前へと進めていくために、

今度は、政治家たちとは別な意味において知恵を持っているとされている詩人職人たちのもとを訪れることになるのです。

・・・

次回記事ソクラテスの無知の知とは何か?③詩人の知のあり方の吟味と感性的直感と論理的把握の区別

前回記事:ソクラテスの無知の知とは何か?①デルポイの神託の真意を確かめる知の探究への道

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