パルメニデスの無時間性とメリッソスの永遠性の関係とは?②神の視点と人の視点の交錯

今回は、前回の議論に引き続き、

パルメニデスにおける無時間性
メリッソスにおいては永遠性として捉え直されるという

パルメニデスとメリッソスの両者における
あるもの」(to eonト・エオン真に存在するもの)についての
時間規定の根本的な違いはどこから来ているのか?

ということについて考えていきたいと思います。

そして、

それは、端的に言ってしまえば、

あるもの」についての同じあり方に対する、
二つの異なる視点に由来するのではないか?

と考えられることになるのです。

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パルメニデスにおける神の視点

パルメニデスの存在の哲学においては、

その唯一の著作である六脚韻の叙事詩自体が、
まるで、神からの啓示を受けるかのように、
真実の女神の口を借りる形で語られています。

そして、その叙事詩の中では、

女神が、こらから真理を学ぶべき若者に対して、
真理に至るために哲学的探究が歩むべき正しい道筋を示していくという形で、

神の完全なる知性から見た
真理の道の姿が描き出されていきます。

つまり、

パルメニデスにおいては、

神の視点から見た
「あるもの」すなわち、真に存在するものの姿が
描き出されているということです。

メリッソスにおける人の視点

それに対して、メリッソスは、

師であるパルメニデスの存在の哲学
なるべく多くの人々に理解してもらい、その思想を広く受け入れてもらうために、

平明で分かりやすく論理的な説得力を重視した議論を展開します。

そこには、もはや、パルメニデスの語りにおけるような、
神の啓示のような荘厳で深遠な詩的表現などは介在せず、

言うなれば、

パルメニデスにおいて、神の知性の域にまで高められたかに見えた
「あるもの」(ト・エオン)の姿が、

メリッソスにおいて、人間の日常的な言語の世界へと
再び引きずり落とされてしまったと見ることもできる
ということになります。

このことを指して、アリストテレスは、
メリッソスのことを凡庸なる哲学者と呼んだ
とも考えられるわけですが、

むしろ、メリッソスの意図は、

パルメニデスにおいて神の視点にまで高められた「あるもの」の姿を、

あえて、一度、日常的な言語一般的な論理の世界まで引きずり降ろして、
新たに人の視点から描き直すことで、

その真理を別な角度から捉え直そうとすることにあった
とも考えられるのです。

つまり、

メリッソスは、

人々を広く説得し、真理をより理解しやすい
新たな角度から捉え直すために、

パルメニデスにおける神の知性の域から、
人の知性の域へと再び降りていくことによって、

人の視点から見た
「あるもの」すなわち、真に存在するものの姿を

描き直しているということです。

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神の視点と人の視点の交錯

そして、

パルメニデスにおける
神の視点から見ると、

「あるもの」は、
過去や未来といった時間区分の一切を超越した存在
ということになるので、

「あるもの」は、無時間性として捉えられることになります。

なぜならば、

完全にして、全知全能なる神の知性においては、
人間の知性では過去や未来として捉えられる物事も、

そのすべてを俯瞰し、通覧するようにして
一挙に捉えることができると考えられるので、

神の視点においては、
過去や未来といった時間区分自体が存在しないことになるからです。

つまり、神においては、

過去も未来も全部ひっくるめて、
そのすべてが現在において目の前に存在することになるので、

結局、神の視点においては、

過去や未来といった通常の時間区分も、
神の知性における現在の内にすべて吸収され、
一体化されてしまうことになるということです。

しかし、

その同じ「あるもの」を、

メリッソスのように、
時間的にも空間的にも有限であり、死すべき者mortal)である
人間の視点から見ると、

それは、改めて時間概念の内において捉え直されることになり、

「あるもの」は、
過去にも未来にも常に在り続ける
永遠性として捉え直されることになります。

なぜならば、

人間においては、時間や空間の内に存在しないものは、
そもそも認識もできないということになるので、

「あるもの」を人間の言語と論理によって正確に捉えるためには、
それは、時間概念の内において捉えられることが必要となり、

「あるもの」が、もし、時間的存在として捉えられるとするならば、
それは、常に存在し続けるのだから、
必然的に、過去も未来も永遠に在り続けるということになるからです。

・・・

以上のように、

「あるもの」、真に存在するもの自体を
パルメニデスのように、神の視点から捉えると、

それは、時間という規定に縛られない
無時間的存在として捉えられることになるのですが、

その同じ「あるもの」を、

メリッソスのように、
人間の視点から捉え直そうとすると、

それは、時間概念の内では、
永遠性の内に在り続ける存在として捉えられることになるのです。

それは、言わば、

三次元の視点では円錐として捉えられていたものと
全く同じ存在が、

二次元の視点では、その断面の切り取り方によって、
三角形楕円として捉えられることになりますが、

そのどちらの見解も間違っているわけではなく、
むしろ、両者は、同じ存在の真実を、
それぞれ異なる観点から描き出していることになる

というように、

パルメニデスの神の視点から見た
「あるもの」が無時間性として捉えられた姿も、

メリッソスの人の視点から見た
「あるもの」が永遠性として捉えられた姿も、

そのどちらの見解も共に正しく、

パルメニデスとメリッソスは、
神の視点人の視点というそれぞれ異なる観点から、

「あるもの」すなわち、真に存在するもの真実の姿
描き出しているということであり、

そして、以上のように、

パルメニデスとメリッソスにおける

神の視点人の視点との交錯の内に、

「あるもの」すなわち、真に存在するものの真実の姿がある
ということになるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:パルメニデスの無時間性とメリッソスの永遠性の関係とは?①同じ前提に基づく二つの異なる推論

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