ウーシアが本質か実体かという捉え方の違いに基づく「三位一体」の解釈における三つの神の一体性の強さの違い、三位一体とは何か?④
前回の記事で書いたように、「一つのウーシアと三つのヒュポスタシス」というギリシア語の定式における三位一体の教義のことを表す言葉からは、
「一つの本質と三つの実体」と「一つの実体と三つのペルソナ」というラテン語の定式における二つの三位一体の表現のあり方が生じていくことになったと考えられることになります。
そして、
こうしたラテン定式における三位一体の表現のあり方の違いは、ギリシア語における「ウーシア」と呼ばれる概念が、「本質」と「実体」というどちらの概念によって捉えられることになるのか?という
神の存在における「ウーシア」の概念の捉え方の違いに由来していると考えられることになります。
「ウーシア」を「本質」として捉える解釈に基づく独立性の高い関係性としての三位一体の解釈
まず、
はじめの「一つの本質と三つの実体」という三位一体論の定義においては、
ギリシア語における「ウーシア」は「本質」、すなわち、神の存在における神性そのものとして捉えられたうえで、
そうした一つの神性を自らの本質とする神の存在が、三つの実体すなわち真なる実在としての姿においても三つの異なる実体をもった姿として捉えられていると考えられることになります。
つまり、
こうした三位一体の定義における「ウーシア」の概念の捉え方に基づくと、父なる神と子なる神そして聖霊と呼ばれる三位一体の神の存在は、
自らの本質である神性という点においては一なる神として統一されてはいるものの、その存在は、実体と呼ばれる真に実在的な姿においても三つの別々の存在として実在しているという
三者それぞれが互いに独立性の高い関係性において一つに結びついている存在として捉えられていくことになると考えられることになるのです。
「ウーシア」を「実体」として捉える解釈に基づく一体性の高い関係性としての三位一体の解釈
そして、それに対して、
その次の「一つの実体と三つのペルソナ」という三位一体論の定義においては、
ギリシア語における「ウーシア」は「実体」、すなわち、神の存在における真なる実在としての姿として捉えられていると考えられることになり、
そのうえで、
父なる神と子なる神そして聖霊という三者の存在は、そうした真なる実在としては一つの存在である神が、三つのペルソナすなわち三つの仮面や三通りの名前をもった存在として捉えられていくことになります。
つまり、
こうした三位一体の定義における「ウーシア」の概念の捉え方に基づくと、父なる神と子なる神そして聖霊という三位一体の神の存在は、
実体としての一なる神、すなわち、一つの本体のみをもつ神が三つの仮面や顔をもった存在として捉えられていくことになるので、
それは、言わば、
仏教やヒンドゥー教の守護神などとして描かれる三面六臂すなわち三つの顔と六つの腕をもった阿修羅像(あしゅらぞう)の姿のように、
三者の存在が一心同体であるような極めて一体性の強い関係において互いに密接に結びついた存在として捉えられていくことになると考えられることになるのです。
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以上のように、
「一つの本質と三つの実体」と「一つの実体と三つのペルソナ」という二つのラテン語の定式における三位一体の表現のあり方においては、
ギリシア語における「ウーシア」の概念の捉え方の違いに基づいて、
「ウーシア」を「本質」として捉える前者の解釈のあり方よりも、「ウーシア」を「実体」として捉えていく後者の解釈のあり方のほうが、
父なる神と子なる神そして聖霊という三者の存在の間の一体性がより強い形で示される解釈となっていると考えられ、
その後のカトリック教会を中心とする三位一体論の教義の確立においては、特に、こうした二つのラテン語の定式のあり方のうちの後者の「一つの実体と三つのペルソナ」という定義のあり方に基づいて、
こうした三通りの神の存在の関係性についての神学的な議論が進められていくことになっていったと考えられることになるのです。
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次回記事:一つの実体と三つのペルソナとしての三位一体の神の存在の具体的な解釈のあり方とは?三位一体とは何か?⑤
前回記事:ギリシア語とラテン語における「三位一体」を表す三通りの言葉、ギリシア定式とラテン定式における表現のあり方の違い、三位一体とは何か?③
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